「何か新しいものを手に入れようとしたときは、今持っているもののどれかを手放すこと」
例えば今目の前に新しいものがあって。
それがたまらなく欲しくて。
ただ手には抱えきれないものを抱えていたならば、どうしようか。
「何か新しいものを手に入れようとしたときは、今持っているもののどれかを手放すこと」
これから出かけようかな、昼寝でもしようかな。
週末、のらりくらりとそんなことを考えながら眺めていたインスタに
そんな節約術が書かれていて、思わずうなる。
インスタでハッシュタグでフォローしてると面白い。
特に「#整理術」とか「#節約術」とかフォローしてると面白くて、目から鱗の内容が何の気無しに見ていると入ってくる。
節約術は通ずるところ、
「人生の選択と妥協」
だと思う。
何が欲しくて
何が要らなくて
何を手放せばいいか
それを決める基準。
全てを抱えられたらいいのに、全てを抱えていくことはできないから。
そんなことを教えてくれる。
最近筋トレを始めた。
特に何かしら危機感とかそういうことじゃなく、何年かに一回ある「あ、筋トレやってみよ」みたいな、そんなノリだ。
2年前ほどにはiPadアプリを入れて家でずっとやっていたけれども、なんだかんだで生活環境が変わってからやらなくなっっていた。
できれば週に3回は行きたい。
そう決めて、平日に仕事を切り上げるときはマッハで切り上げ、休日は夕方くらいからいそいそと準備をし始め、ジムへと出かける。
やっと重い腰を上げられた。
なんだかんだでもう1ヶ月以上は続いている。
のめり込んじゃう性格なので、プロテインを買ったり、食生活を変えたり、生活リズムを変えたりしているから、自分が見ていても少しの狂気を感じている。
ただ、のめり込む反面、今までの生活はやっぱりその通りというわけにはいかない。
ジムまでの距離が少しだけ遠くて、往復で30〜40分ほどかかる。
ジムに行く準備なんかを含めると30分ほどかかる。
当たり前だけれども、筋トレを始めたとて、ぼくの1日は24時間。1日の時間は筋肥大しない。1日はいつだって誰にだって平等なのだ。
料理をやめることにした。
筋トレをするまでは本当に料理が好きで、
どれくらい好きかって言えば
料理を毎日インスタにあげるくらい好きだ
まな板にこだわるくらい好きだ。
週末料理をするために先輩の誘いを断るくらい好きだ。
それでも、身体をつくることと比較したら、それはやめないといけない。
正確に言えば、「料理を完全にやめるということ」ではなく、「凝った料理を毎日つくることをやめた」ということだ。
もちろん料理はする。しなければいけない。
いろいろと調べた結果、筋トレをして理想的な身体を得るには、理想的な食事をする必要があり、コスパを考えると家で料理をすること自体はしなければいけない。
ぼくがやめようとしているのは、
「理想的な身体をつくるため以外の食事について時間をかけて考える」ということ。
好きだけど、もうすっぱりやめた。
ついこの前まで開けば色とりどりの野菜やら肉やら何やらがあった冷蔵庫は、今では開けば白と緑ばかり並ぶ。大量に作ったゆで卵とサラダチキン、ブロッコリーだ。そこにドンキで安く買った納豆が10パックほどある。
あれほどまで好きだったものを、やめる。
そうだ、非情なのだ。
何かをしないと判断するときの最後の言葉はいつだって非常。
物であれ、人であれ、習慣であれ。
そして同時に不器用なのだ。
そこまで綺麗に好きなものを並行できない。
じゃあ一抹の寂しさも感じないのか。
と言われれば、そんなことはない。
台所に立てば、包丁が当たる音に心地よさを感じたお気に入りのまな板を見て、「なんでもいいから切りたいな」と思うし、この前みたいに誰かに料理を喜んでもらえれば「こういう感覚って料理をふるまうから生まれる心地よさなんだよな」などと郷愁にひたる。
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「それ」を持っていたことの良さは、皮肉なことに
ゴミ箱を目の前にして「これ捨てる?どうする?」と手に取ったとき、初めてしみじみと考え出す。
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「何か新しいものを手に入れようとしたときは、今持っているもののどれかを手放すこと」
親指のスクロールでぬるっと流れていったポップだけどあまりにも内臓に響く一言は、とても大事だ。
いつぞや見たヘルマンヘッセの名言
「持っておくことが強いことだと考える者もいる。けれど時には手放すことで強くなれる」
を思い出した。
新しい習慣を取り入れることは、なくす習慣と向き合うことだ。
そして
今自分がどうなりたくて
今自分にとってどんなことが大事なのか
今の自分にとって、一分一秒一時間一日とはどんなことなのか。
人生を、かっぽしよう