たまには周りのせいにしてもいいんじゃないの?
たまには人のせいにしてもいい。
「縁がなかったってことだよな」
人との待ち合わせの電車に遅れたらしく、電車の中の乗客が友人と話していた。
違うだろ、おまえの計画不足だろ。
こう思っていたし、言っていたと思います。
ちょっと前のぼくなら。
「良いんじゃない? たまにはまわりのせいにしても」
昔の彼女が言った。
ぼくがあまりにも原因を具体的に追求するまで気が済まないタイプだから。
全ての原因を自分の中に探して直したいタイプだった。
そのときはそれが自分のこだわりだと思っていたのだけど、
結果、つぶれた。
重くのしかかる真っ黒いプレッシャーにぺちゃんこになって。
そのとき彼女はそれが見えていてなんとなく怖かったのかなと。
結果は全て自分の行動が影響している。
自分を変えれば結果は変わる。
ポジティブなひとになりたい自分はそう考えていて。
たしかに正確に考えればそうだけど、
全部そのせいにしたら、責任重大で潰れてしまう。
限界ってあるのだと思う。
人間が一度に抱え切れるものには。
「神様がやめろって言ってんのかな」
「神様が休めって言ってんのかな」
誰も傷つけないで周りのせいにする方法として、ぼくらは悪い結果にもこうやって解釈してきました。
それが神様が少しずついなくなった科学の時代から
「何かが起きる原因にはそれぞれ法則があるし、
その原因は自分はコントロールできるし、
自分はコントロールして世界を変えられる」
そういう考え方になったり、そう考えさせられるようになる。
けど苦しいのだ、全て自分が原因だと思うって。
「神様が生きろって言ってくれたんだね」
「だから亡くなった人の分まで、生きる」
震災のとき、被災して家族を失った人がこう言った。
科学時代にこんなことを言うのは、ナンセンスでもあります。
けど、ひとりの人間がこうやって強さを見出して立っている。
それ以上に追求する価値のあることがあるだろうかと。
被災地での活動のなかで何度か聞いたこの言葉は、なんとなく引っかかっていたけども、
自分の頭のなかで何度も繰り返されて、何回も練り直されて、
あるとき満足いくかたちにおさまって。
そうか、人間はこうやって生きてきたのか、だから生きてこれたのだ、と。
全てをコントロールしたい自分の思考に殺されないようにしてきたんだと思うのです。
日々の中で、なんだかんだで
なんともできないことは、一度は流してみることも必要だと思うのです。
あまりにも複雑で、巨大な問題は、一度とばしたほうがいい。
解決できそうになったら、また向き合えばいいし、不思議と向き合えと言ってくるときもある。
座右の銘
「なんとかなるし、なんとかする」
ということを掲げさせてもらってます。
この順番ってすごく大事だと思っていて。
「なんとかなるよな」ってどっか他人事で受け止めた後に、
余力がありそうなら「なんとかする」と自分事で動く。
なんとかする力がないときは、ちょっと休んだり受け流してみる。
それくらいの力の抜き加減は持っておきたいなと。
この言葉、最初は「なんとかする」が先にあったんですけど、
なんとかするのは、なんとかなるって受け止められてからで良いような気もするから。
で、頑張ったら、あとはなんとかなるので、正確に言えば
「なんとかなるし、なんとかするし、なんとかなる」ってことで。
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