食事の写真をシェアすることで、ぼくらが大切な人に伝えたいメッセージ
近くの席で女性がこれから食べるスンドゥブを撮る音がした。
一緒に食事していた友人に
どうして食べたものをアップするんだろうな?
という話をふっかける。
友人が
「そう言えば、家族と暮らしてるときはそんなに撮らなかったなあ」
と言って、ぼくもそう言えばそうだな、と納得する。
「ひとり、だからじゃないかな」
友人の、何か奥底から見えて取り出したみたいな言葉で、スプーンが動かなくなってしまった。
韓国料理 チェゴヤ / machu.
「今日はこれ作って食べたよー」
昔、恋人が、食べたものをよくシェアしてきたときがあって。
そのときは、
「おーうまいねー」とか
「おれも腹減った」とか
そんなことを送っていたと思う。
そのときのぼくは、たんなる連絡する口実なんだと考えていて。
送ってくる意味なんて深く考えずにいて。
けど、それに返すこともだんだんと冷め、
他にやることもあって忙しく「なんで送ってきてんの」とか感じたりするようになって。
ちょこちょこ送られてくる写真に、ため息とイライラと疲れがつのって。
それを感じたのか、相手もなんだかんだで送る回数も少なくなってった。
「ひとり、だからじゃないかな」
そのことばを、スンドゥブの前にモソッと落とされたときに、
「もしかしたらあのとき、一緒に食べたい、とか言いたかったのかもしれないなぁ」
と、よぎる。
その恋人とは、結局なんだかんだですれ違いも多くなって。
で、ケンカもせず、円満別れでもなく、
お互いに少し冷めた感じで、別れようってなり、二人のじかんを終えた。
「食べるときは、ひとりでいいよ」
と、最近ぼくが、とある友人に言ったとき
「いやーやっぱりだれかはいて欲しいよー」
と返され、そうかな、と疑問をまた返すと
「会話がないとしても、だれかは一緒に食べたい」
と言われ、たしかに、ごもっとも、となった記憶がある。
そこには言葉なんてなくていいし、意思疎通なんかなくてもいい。
「一緒に食べている」という、ただその感覚が欲しいのだと思ったのです。
もちろん
食事を画像に撮ってシェアするひとつの理由は名誉欲なのだろうとは思います。
「ちょっと特別な体験をしました」
「ちょっと面白いものを食べました」
そういう感じに。
けど、日々の食事を撮るとき、それはきっとちがう意味で。
「横にいて欲しくて、一緒に食べたい」
ぼくはあのとき、その孤独さを理解できずにいたのだろうと。
今ならなんて言葉をかけるだろう。
ひとりの食事の味は、ひとりになったときに、初めてわかる。
スンドゥブを食べて、店を出る。
なんだか、やたらとお腹いっぱいになったスンドゥブだったとさ。
なんとなく、しばらくスンドゥブはひとりで食いたくない。
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