宮城には人の気持ちをやさしくする方言がある
家を出で駅に向かう途中で、夫婦が玄関から出てきながらケンカをしていた。
「急いでるって言ってんじゃん」「だからちょっと待で(て)って」
おうおう朝から騒がしいのうと思って、けれど他人の口ゲンカを見るのは好きなのでのらりくらりと見ていた。
「落ぢ着いでいがいんよ」
とその夫婦の後ろから声が聞こえる。
「落ぢ着いでいがいん」もう一度。
声の主はその夫婦の母親で、出かけるというのにケンカをしている2人を見かねて声をかけたんだろうなあと思う。
そのことばに、当の本人たちはプリプリしながらもさっきよりは少し落ち着いたようだった。
食べらいん
入らいん
あばいん
これらはぼくが好きな宮城を中心とする方言。伊達藩を中心に使ってたっぽい。
ウィキペディアでこの方言の持っている意味を調べてみる。
命令の意味を表す。命令形による命令よりぞんざいでないニュアンスがある。また、同様に連用形に「さい」を付けてつくるさらに柔らかな命令の表現がある。
う〜ん…
これに加えて「しましょう」っていう「誘い」の意味もあるんだともほかのページに出てきた。
う〜ん…
ぼくが思ってるニュアンスとちょっと違う。
もうちょっとこう、強い感じではなくて、でも包み込むような大きさがあって、そして言葉の強さに従ってしまう感じ。
なんていうの、たとえるならそうだな
たとえられない。
方言って標準語に訳すとやっぱりおかしい。その微妙なニュアンスは失われてしまう。
食べらいんは食べらいんだし、入らいんは入らいんだし、あばいんはあばいんだし。
ニュアンスを伝えづらい宮城弁で「いずい」っていうのは、特に有名だけども。
しかしあの「〜いん」の持つ優しさはなんだろうなと思う。
そう考えてみて、もしかしたら、と思った。
もしかしたら、この優しさは「おじいちゃんおばあちゃん」なんじゃないかとも思った。
おじいちゃんおばあちゃんがいつでもじぶんのことを迎え入れてくれるときに使ってくれた言葉。
その感覚が、方言の持つ意味ににすり込まれているんじゃないかなって。
そうすると、ぼくらのほかの言葉も、意味以上にいろんな意味を含んでいて、けどそれはとてもとても個人的な文脈が入り込んでいるのだろうな。
そういう意味では、言葉ってのは「思い出の感覚を詰め込んだ瓶」なんだろう。
そうして、ぼくも気づかぬうちにその瓶の中から思い出の感覚を取り出して、他の人に詰め込んで渡している。
それが次第に意味をつくっていくんだろうか。
故郷を思い出す方言は、それが特に強いんだろうな。
ほかの地域はほかの地域で、こういう言葉にできない思い出のような感覚が方言のなかに入っているんだろう。
すごく知りたい。興味がわいた。
早朝にいがみあっていたあの夫婦には、おばあちゃんの「落ぢ着いでいがいん」がどんなふうに届いたんだろう。
人生を、かっぽしよう
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