自分が世界(Facebook)の主人公ではないと気づいたのはいつからだった?
自分が世界の主役じゃないって気づいたのはいつだったか。昔からわかってたような気もするし、最近になってようやく思い知らされたような気もする。facebookの自分のページを客観的に見ると、別にイケメンでも何でもなく、コミュ症っぽい雰囲気を全体にまとっている。さっきそれを見て、つくづく俺はこの世界の主役にはなれないんだなーって思って。
じぶんが世界の主人公ではないと気付いたのはいつからだったか。
なんてストレートな言葉なんだろうと思った。
少し前の匿名の日記にあったことば。
いまは元記事は消えてしまっていた。残念。
少し前までのぼくだったらこの言葉の意味に気づかなかった。
けど、いまこの言葉を手に入れて、いろんなネガティブな感情を晴れやかにすることができている。
ぼくも、「その瞬間」は分かりません。
それでも、だいたいのきっかけやら、だいたいのタイミングは言えて。
ここで書いていることはまさにそのあらわれで。
簡単に言えば、「承認欲求」ってことなんだろうと思うけれど。
みんなが注目するステージの上にいたくて。
ぼくは、誰よりも一番でいたかった。
ちやほやされたかった。
だから、
小学校の学芸会ではいつも主役を望んでやっていたし、
音楽祭だってピアニカすらまともに吹けないのに、『そりすべり』という曲でウッドブロックなら目立つし、簡単だと思ってやってた。あとで休符を読めないということで、学年全体に迷惑をかけたんですけど。
中学校でも部長。応援団長。ギターを始めたのも視線を集めたかったから。
高校でも卒業式でクラス代表でステージ上で喋る。
そうやって、とにかくステージの上でみんなの注目をあびることは、全部もぎ取ってやろうと思ってた。
そして同時に、
そうじゃないじぶんがものすごい許せなくて、悲しくなって、ものすごいそわそわしていた。
大学に入ると、いわゆる「意識の高い大学生」(悪い意味で言ってるわけじゃない)。
「そんなんでいいのか、大学生!」と呼びかけて、
できるだけデカい集まりを作ることが楽しくて。
けど何よりも、その中心にぼくがいることが楽しかった。
ぼくが中心になってオンステージになれる場所を作りたかったんだと思います、根っこは。
そのステージを「もう要らないんじゃないか?」と問うた。
それには
祖母の死は、やっぱり大きかった。
祖母の死をきっかけに、ぼくは今までのものをぜんぶほっぽり投げた。
それまでの、Facebookに書くためのような「注目されるじぶん」の毎日をやめた。
っていうか、やめざるを得なかった。
だって、
毎日病室にいて、田舎で家事をして、書くことなんて、ないだろうと思ったから。
病室の窓の向こう側に見える街並みと国道をせわしなく車が走る。
そんな景色を毎日病院の上の階から見渡し、
それから、横でピコーンピコーンという音のする電子器具。
今少しずつ人生の幕を閉じようとしている祖母を隣にしながら、なんとなく夢から覚める気がして。
何かずっとしがみついていた自分像みたいなものが、さらさらーっと消えてく感覚。
結局じぶん、何がそんなに欲しかったんだっけ?と。
見てみろよ、と。
だいたいは、じぶんのことなんてみんな見てくれない。
華々しい舞台の時間は1年に何度、何時間あるかわからない。
日常は平坦で、ぼけーっとしている時間のほうが長くて。
なのに
日常のささいなことに喜びを感じることができなくなっているじぶんに気付いて。
そして、日常のささいなことに喜びを感じる人に、ぼくは距離を取られていて。
ぼくはひとりぼっちだと気づいて。
だったらこの中に喜びを見出さないと、耐えられないだろう。
そう思って。
そこからだと思います。
洗濯物がたくさん日の匂いを含んでることに喜んだりとか。
お母さんと子どもが手をつないで歩いてる背中を見て嬉しくて。
アイスを食べてじゃり道を踏みしめることにウキウキしたり。
Facebookを開いても、通知は全く来ていない。
タイムラインはじぶんと関係なく動いていく。
LINEも一通も来ていない。
だれも、ぼくを見ていない。
けど、もうステージに登らなくても、じゅうぶん楽しかった。
幸福感度が一気にあがったんだと思います。
日常の一歩一歩から幸せがじゅわっとにじみ出る感覚。
そんなことを言うと、
じぶんも同じですと言う人が出てくる。
「Facebookとかくだらないですよね」と。
「ああいうの見ているとちょっと冷める」と。
けど、それは違うと、断じて言いたいのです。
よくよくその人の話を聞いていると、ただ世界に呆れたり、嫌気がさしていたり、冷たく見てるだけだったりする。
断じて違う。
「あんな世界たいしたことないよね」「くだんないよね」
そんな気持ちで世の中を、Facebookを見てはいない。
そういう無気力主義とか否定主義ではない。
それは、結局は「すっぱいブドウ理論」で、そもそも手に入れたかったけど手に入らないものを、
あれは酸っぱいブドウだからなんて言って手に入れようとしないじぶんを正当化しようとしているだけなんだと思う。
そういう意味では結局はじぶんが世の中の真ん中に立つ人間だと、まだ思っているのだと思う。
***
冒頭で紹介した日記にはこうもあった。
脇役でも脇役なりにこれから何十年と生きていかなきゃいけない。脇役であることに慣れてしまえば、そんなこと気にもしなくなるはず。プライドを下げて、自尊心は保って、コツコツと小さな幸せを見つけながら脇役人生を謳歌するのだ。
脇役は悪いことではないのだと思う。
ぼくは世の中の主人公ではない。
きっと脇役だろうと思うのです。
けど、ぼくはぼくの役を誰かにゆずるつもりはなくて、それは全力で演じきりたい。
それだけは、我がままに、したいのです。