自信がなくなった?ならジタバタするしかないよ【魔女の宅急便】
実家のぼくの部屋の入り口には映画『魔女の宅急便』の大きなジグソーパズルがさげられていた。
母がジブリ好きだったからだと思う。
記憶が定かじゃないけれど、登場人物のおソノさんが好きだと言っていた気がする。
なんだったっけ。ああいう笑い方をしたいとかなんだとか、たしか、言っていた。
親の話はちゃんと聞くもんである。
先日金曜ロードショーで『魔女の宅急便』をやっていて、
久しぶりに地上波で映画を観た。
不思議なもんで、小さい頃に2回くらいしか見たことないはずだったけれど、ちゃんと覚えていた。
金曜ロードショーなんて、小さい頃は途中で寝るための良い睡眠導入剤だったのに。
おかげでハリーポッターシリーズは
『賢者の石』でハグリットが登場したあたりで記憶がなくなっている。
でも、もう一度観てみるものだと思う。
幼いときに風物詩に観ていた映画も。
もう一度あの『魔女の宅急便』という映画をみて思ったことは
これが、
自分見つけて、それから失って、それからまた見つける物語
ということ。
●個性の見つけ方
個性ってのはつくづく危険なものだと思う。
個性が自分にとってプラスに働いてくれるときはどこまでもいけそうな気がするものなのだけれど、
マイナスに働くと、自分に牙をむいてくるときがある。
魔女の里で魔法が当たり前だったキキにとって、
魔法が個性だと自覚した瞬間は「おしゃぶりの忘れ物」だった。
おしゃぶりの忘れ物を届けて喜んでもらえる経験なんかを通して、
キキは自分の空を飛ぶ魔法が、誰かに喜ん部もらえることなんだと自信を持っていく。
けれどもそのあと、
宅急便で届けたニシンのパイが「あたしこれ嫌いなのよね」と
小娘にろくに喜ばれない経験をしてしまうのだが、
別に自分が否定されたわけでもないのだけれど、
自分が自信を持ってやったことが誰かにケムたがられたりして、
自分を否定してしまう。
魔法という個性を失ってしまったしまったのはそのあと。
猫のジジとは会話ができなくなる。
空も飛べなくなる。
おまけにお母さんからもらったほうきも折れてしまう。
たぶん、生まれながらに
「これが自分の個性です。これが私の強みです」
なんて思うことはないのだと思う。
個性とか自信が、どこからやってくるかって言ったら、
それは他人との比較。
自分が大したことないと思っていたことが、
びっくりするくらい感謝されたり喜ばれたりすると、それが
自己肯定感になり、
自信になり、
個性になる。
ぼくの場合はそれが文章だった。
小学生のときに書いた文章が担任の成田先生におそろしく褒められ、
中学生のときに自主勉強として書いていた小説がみんなに「面白い。早く次書いて」と言われ
高校生のときに暇つぶしに書いていた小説が退屈な授業中に回し読みされるほど喜ばれた。
大学生のときに書き始めたブログは知らないどなたかに「感動をしました」と感謝された。
ぼくとしては文章を書くことなんてみんなやることなんだからと思っていたけど、
それがひそやかな自信になり、個性になっていた。
実は自分を支える自信はそういう感謝の経験からやってくる。
「私にはこれがあるから」
個性は自分をそう思わせてくれる強さがある。
個性は自信になり
アイデンティティ(自己同一性)になる。
けど、いいところばかりじゃない。
個性があるからこそ、逆に苦しめられる。
「私の個性なんて誰の役にも立たないのかもしれない」
「私の個性なんて大したことじゃないのかもしれない」
一度その個性がへし折られると、自分の存在すら否定するほど牙をむいてくる。
「魔法がなくなったら、何のとりえもなくなっちゃう」
というキキは言った。
それまで魔法だとか、空を飛ぶだとか何の意識もしてなくて、
なんのとりえでもないと思っていたのに、いつの間にかキキの中でとても大事な個性になっていた。
だからこそ、キキを苦しめた。
それが失われてしまうという感覚は、
キキが魔法を個性として意識して、
魔法が支えだと思ったことによって、
自分自身の存在否定に近いものになってしまう。
文章が個性だと思ってブログで文章を書いていたぼくも、近い経験をした。
「こんなポエムみたいな文章でよく露出できるな」
という書き込みをもらったことがあって、
ぼくの文章なんて大して誰の心にも寄り添えていないのかもしれない
と思ったことがある。
それで、ずいぶん存在否定した。
なんなんだろう、自分、と。
●個性は一度失われる。それでも、いつか戻ってくる。
個性がへし折られる経験をするのは、キキだけじゃない。
ぼくだけじゃない。
個性をなんとなくでも意識している人みんなに訪れる体験だと思う。
それまでたよりにしていた
ジジという友人が恋人をつくって自分とだけいられなくなったり、
母の大切なほうきという道具を失ってしまったり。
不思議なくらいまわりから大切なものがなくなってしまう。
個性を取り戻したい。
じゃあどうするかと言えば、ジタバタするしかない。
作品中に出てくるウルスラという絵描きの女性との会話が印象的。
ウルスラ「魔法も、絵もよく似てるんだね。私もよく描けなくなるよ」
キキ「ほんと!?そういうとき、どうするの?」
キキ「わたし、前は何も考えなくても飛べたの。
でも、今はどうやって飛べたのか、分からなくなっちゃった」
ウルスラ「そういうときはジタバタするしかないよ。描いて描いて描きまくる」
キキ「でも、やっぱり飛べなかった」
ウルスラ「じゃあ何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ」
キキ「なるかしら」
ウルスラ「なるさ」
なんだかこの絵描きのウルスラの言葉が
劇中に登場する宮崎さんの言葉のように聞こえる。
結果的にキキはジタバタした。
大切なトンボを守るために、母のほうきではなくて、
そこらへんで手に入れたデッキブラシを使って、飛ぶ。
人からどう思われるかとか、道具がどうだとか、
そういうことはまるで気にもとめず、
とにかく飛ばないと、飛びたい、と思って飛ぶ。
宮崎駿はこのときのことを
「キキの魔法の力はさらに深くなったんだ」
と語っているのだけど、そういう瞬間だった。
個性は、どこかで一度打ちひしがれる。
打ちひしがれて、自分を苦しめる。
そんなことなら個性なんてないほうがマシだった、と思わされる。
それでも
失われたと思っている個性は、もがいて、ジタバタして、いろんなものを失ったりして、
そうしてまた、戻ってきたときにはもっと強くなっている。
大切にしたいと思うものが目の前にあるとき、もっと守れるようになっている。
人生をかっぽしよう。
「料理くらいしか好きなことないのよ」
と言っていた母の姿を思い出す。
自分にとって自信のかたまりのようだった母が
そんなことを言ってびっくりしたことがある。
もしかしたら、
魔女の宅急便で母が好きだったのはおソノさんじゃなくて、
キキだったんじゃないかと思ったりもした。
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