「ぜんぶ電子書籍になればいいのに!」と言えないのは「積ん読ができない」から
以前は紙の書籍を読んで、それを検索や持ち運びしやすいように、裁断してスキャナーにかけて電子化する、いわゆる「自炊」をしていた。
けど、最近それすらしなくなった。
ぼくの中で限りなく紙の本が絶滅しつつある。
昔は紙の本を買って読んでから電子書籍にしていた。
けど今ではそれをやめて
容量マックスのiPadを買って、Kindleストアで最初から電子書籍の状態を買う。
理由はいくつかあるのです。
まずはかなり安い。
毎日のセールに加えて、毎月のセールがあるし、不定期のセールもある。
現金の代わりに使えるポイントも20%還元するなんていう狂気の沙汰みたいなこともよくやっている。
この前紹介したけれども、あのマンガが一冊11円とか、100円切ったりとかザラで、夢に見た「マンガ大人買い」とか、駄菓子を買うような感覚でできちゃう時代。
それから持ち運びやすさ。
端末の容量さえ大きければいくらでも本をデータとして持ち運べることになる。
つまりは「本棚」を持ち運ぶことも可能になったわけだ。
「今日はこれ読もう」なんて本棚からバッグに入れなくても、毎日すでに入ってる。
今はあの本読みたかったのにな。と思って持ってくるのを忘れたなんてこともない。
そして本の利用のしやすさ。
デジタルだから気に入った記述があるところは指でなぞってピピピーッとコピーしてEvernoteにペーストするなり、別ウィンドウでEvernote開いて文字を打ち込めばいい。スクショして画像を貼り付けてもいい。
ノートを探す労力や時間はいらない。
「あれ、ああいう感じのことどこに書いてあったっけ?」と思ったら書籍内で検索をかければいい。
そんな感じでぼくは書籍にかけるお金も時間も少なくなって、効率よく本を楽しめるようになった。
紙代がかからない、本屋に置かない、輸送しない、扱う店員がいない、ということにするとこういうことになるのであるよなあ。
いい時代に生まれたもんだ。
もういっそのこと全部電子書籍にしちゃえばいいのに。
ちゃんちゃん。
なんてホリエモンみたいなこと書くと、いい感じにこのブログは炎上してアクセスがあがっていっちょあがりって感じになるのだけれど、そんなことは書かない。
そんな生活を踏まえた上で、紙本の良さに気づけた。
デジタルは確かに便利だけど、デジタルにしてから、本をコツコツ読んでいく習慣はガタッと崩れてしまったと思う。
簡単に言えば「積ん読状態」が多くなった。
というか、「積むことすらできなくなった」というのが正しい書き方。
もともとぼくは紙の本でも積ん読が多いほうだったけど、それでも紙の本は読む習慣がついてきた感じがしていた。
たしかにKindleにしてから本を買うペースも段違いに早くなったけど、それと比べても放置する量は多すぎる。
今読んでない本が30冊近くある。
どうしてだろうと思っていたら、久しぶりに図書館で本を借りて紙の本を読むことになり、気づいたことがあった。
それはあまり意識もせずにやっていたことだったのだけど。
紙の本を家の中のいろんなところに置いていた、積んでいたのですよ。
ごはんを食べるテーブルのわきに。
枕のそばに。
洗面台のそばに。
階段に。
そうすると、どうなるか。
その場所に行くと読書を始めるスイッチが勝手に入るんですね。
例えば、ごはんを食べるテーブル。
ここに置いた本は、ぼくがごはんを電子レンジにかけて温まるまでの時間によく読む。
例えば、洗面台のわき。
これは歯磨きをするときに読む。
例えば階段。
これは家を出る前に。
こうやって、生活のシーンに合わせて場所に本を目に見えるように置いておく。
そうすると読むことが習慣づく。
こういうことは自然と目に見える紙だからこそできる。
そして読んでる間は何の通知も連絡も来ない。
意識が紙にだけ入り込むひと時。
あとは
この本はどこに置こうかな、出かけるまえの階段のほうが元気出るかな、とか。
という楽しみも、あったりする。
これが電子書籍になりiPadに入ると、色んな本のデータが入り、さらには本だけじゃなく色んなツールも入る。
本が日常の上にぽんっと置かれている生活がなくなってしまった。
本を読もう、と意識しないと、読まない。
何となく言葉にならなかったけど、紙本の与えてくれる安心感のひとつってこういうことなのかもしれない。
けど。
けど。
やっぱ電子書籍も捨てがたい……
うむむむむ。何か良いバランスはないものか。
人生をかっぽしよう
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