「好き」や「愛してる」が分からないなら夏目漱石に聞けばいい
恋愛の相談を受けていて、一番多いのは
「これは好きってことですか?」とか
「好きや愛してるの違いって何ですか?」とか
そういう質問です。
つまり、「好き」「愛してる」とかってことが分からない。
ぼく、言うんですが
聞かれても分かりません。
だって、そんなの完全に個人の気持ちだから。主観だから。
そもそもぼくだって探してんですよ。
いや、それは違うよ、ということもできません。
言ってしまえば好きに正解も間違いもないってのが持論です。
だから、正直「好き」という気持ちを他人に相談して
答えを決めないでほしいとも思っています。
一時の安心感しか得られないと思います。
ただ、そういう相談をする苦しさも分かっているつもりなので
なんとなく主観の相談に対してヒントになりそうなことを伝えます。
そのときによく引用するのが夏目漱石の言葉です。
そう、有名な「月が綺麗ですね」という言葉。
どういうお話か、というと
夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒が"I love you"を「我君を愛す」と訳したのを聞き、
「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言った
というお話。
何じゃそら
と思ってしまうんですが、ぼくはこれ、すごい核心を突いていると思います。
というのも、月っていう日常的にあるものを見て、
月が綺麗だな、あなたと一緒にこれ見たいな、お話ししたいな
という、言わば「共有」みたいなこと
こういう感覚を持ちたいなと思う相手が「好き」ってことなんじゃないかと思うのです。
ほら、何でもない綺麗な風景とかを写真に撮ったときに
関係ないけどあの人に送りたいって思うことがあるじゃないですか
あれだと思うんです。
まあ、漱石さんがそういうつもりで言ったのかどうかは分かりませんが。
思えばこの月、色んな人がうたっているんです。
月ってのはいつの時代も「思い」や「愛情」の象徴でした。
今はそばにいない大切な人を思うとき、その代わりにいつも見える月を見ていたのですね。
例えば、
阿倍仲麻呂
「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」
(古今406)
唐に留学して、帰国しようとした時、
故郷の奈良の春日にある三笠山にかかっている月を思い、その故郷の人を思った歌。
「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠(かく)らく惜しも」
万葉集 巻2-0169
なくなってしまった人を月にたとえて、その別れを惜しむ歌
現代だってそう。
「君も見ているだろう
この消えそうな三日月
つながっているからねって
愛しているからねって」
こうして、人は感覚的に、
いつも月を通して大事な人を想って来たわけですね。
月以外でもそうだと思います。
道ばたの花を見た時とか、今日何か嬉しいことがあったとき真っ先に伝えたい人、
そういうことなのだと思います。
そして、
それはひとりひとりの感覚として
答えがあるんだと思います。
あ、「I love you」を「月が綺麗ですね」とテストで書いても間違いなのでご注意を。
漱石先生はその点では間違いです。
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