人生かっぽ

人生かっぽ —佐藤大地ブログ

哲学、言葉、人生観、仕事、恋愛、など人生をかっぽするような物語をつむぎます。宮城県 仙台市を主な活動拠点とする佐藤大地のブログです。2014年からEvernote公式アンバサダー。大学院では政治学を研究していました。

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「出る杭は打たれる」と思っていた僕。勘違いでした。

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学生時代にずっと見てきたことではあるのだけれど
自分とは違うことに挑戦し始めた人に対して、
「あの人はちょっと違う人だから」
突如として素っ気なくなるという風潮を見てきて。

たとえば
社会活動をし始める学生。
将来のビジョンを声高に叫び始める学生
インターンをし始める学生
ビジネスをし始める学生……


そういうふうにじぶんなりに頑張ってる学生がたまに相談してくるのは
じぶんに冷たくあたる社会の存在。


その冷たさを相談してくるときに
「出る杭は打たれるよね」
みたいなことを言うのだけど


ぼくも最初、じぶんが冷たく当たられたときにそう思っていたのだけど
今では「出る杭は打たれない」と思っているのです。
日本は良くも悪くも、そんな社会じゃないよ、と。


Peppercorn Beef Shoulder Filet Steak
Peppercorn Beef Shoulder Filet Steak / TheBusyBrain


離れていくひとたち

Steak
Steak / tarale



横一線から飛び出した勇気ある人。


そういう人らを遠まきにし始めたりして
たとえば飲み会には呼ばなくなったり、
SNS上でリアクションをしなくなったり、
影であざ笑いながら話したり。

子どものいじめがうんぬんと言うけれども、
大きくなったところでいじめになる流れは変わらず、
というかむしろ
大きくなったからこそ、変にお金やら社会的なつながりができて、
より一層いじめが酷くなる部分もある。
(学校のいじめの場合はその規模の狭さゆえ、逃げ道がないのでより辛いとは思う)

権力として使えるものが多くなるから
本気でいじめようと思うと、生きていけないほどにいじめることができる。
それが大人のいじめのこわいところ。




友人関係だけではなくて、
恋愛においても似たことが言えて。

自分の想定しているところよりも外に行ってしまったパートナーに対しては、
寛容にはなれずに、
「そういうところに行く人のことは好きになれない」
と言って、行動を変えさせるか、別れたりする。

たとえば、
水商売をし始めたり、
会社を辞めて起業をしたりとか、
働かずに主夫になるとか。



本当に出る杭? 被害妄想じゃね?


Steak with garlic scape risotto
Steak with garlic scape risotto / sporkist


「出る杭は打たれる」
ということばがあります。


「日本は出る杭を打つ風潮にあるけども、それが成長を邪魔しているんだ」
「出る杭を打とうとする奴がいるが、そんなことは気にするな」


書店で、Twitterで、Facebook
叩こうとする風潮を敵に見立てて、
元気づけるようなことばが、
出る杭の気持ちを勇気付け、あおる。


けど、

ぼくは自分が「出る杭」側になるような経験からしても、
「出る杭を打つ」という風潮は
日本に関してはそんなにあるのだろうかと思っているのです。


「むしろ、それほど打たれないんじゃないか?」


これは相談をしたときに、友人に言われた一言で。
「それ、被害妄想じゃない?
 そんなに必死でおまえのこと止めようとする人いた?」


そのことばを受けて、そう思えば、と。
それほど、ムキになって止められることもなかったな、と。

カルト教っぽいよねとか、
うさんくさいとか
意識高いよねとか、
無駄にアツいよねとか
それやってなにが楽しいの?
やる意味なくね?
そういうことばを聞いたし、又聞きで聞いたりもして。

けど、じぶんが外に出られないようにバリケード張られたとか、
活動できないように場所を奪われたとかそういうことはなくて。


むしろ、偶然のような、運命のような後押しを受けることが多かったんですね。

このタイミングで待っていたような人と出会える幸運。
出会わせてくれる人がいることへの世の中のありがたみ。
物語みたいな幸運が、本当に1センチもたがわぬくらいのタイミングで
じぶんの背中を押してくれることが多いことに気づいて。


ああ、そうか、
「打つ」ほど必死に邪魔されることはないんだなと。
たしかに傷つくことはあるけど、それほどやりづらい状況ではないなと。




出る杭は打たれていない

super fresh pork : man cutting, san francisco (2014)
super fresh pork : man cutting, san francisco (2014) / torbakhopper


語弊があるかもしれませんが
打つ方がまだ健全だと思うのです。
打つということはエネルギーがいる。

打つってことは
自分の時間を全てそこに注いでも自分の正義感を守ろうとしているわけで。
そこには間違いなく尊重すべき一個の正義感がある。
出る方も必死なら、打つ方も必死。


ただ、そうは言っても
じぶんが他の平均的なことをしているのに対して
ネガティブなあつかいをまったく受けなかったかというと、そうでもなくて。


以前ぼくが味わったように、出る杭から距離をとり、不快そうな目で見るあつかいはたくさん受けました。

そしてそういうことばを他のひとが言われている場面も見ました。


「関わるのはやめようか」
「あいつ呼ばなくていいよ」
「なんか意味わかんなくね」
「助けてって言ってるけど、無視しとこ」

そう言って、
なんとなくな村八分をして、
なんとなく表面上は仲良くして、
なんとなく不透明な境界線をはる。


だから、いじめてないよ、なんて言う。
そして、ぼくが言われたときもそうだと思うのです。
いじめているわけではない。


そういうわけで
ぼくらがこの国で挑戦する上でだいたい場合なにと葛藤しているかって
「無関心」と「軽蔑」
だと思っているのです。


かつて、アレクシ・ド・トクヴィルという人がこんなことを言っています。

民主国家に生きる金持ちは並外れた享楽を求めるより、ささやかな欲望の満足を目指す。
かれらは無数の卑小な欲望を満たし、破目をはずした熱情に取りつかれることはない。
こうして彼らは放埓よりは無関心に陥る。

現代の真の悪夢、それはこれから先なにに好悪をもつべきか分からず、ただ軽蔑するだけだということです。

つまり
みんなが同じ身分になって、あるていど満足な生活ができる社会に残るのは
誰かが何かを必死にやっていようとも、それに関わらない「無関心」
同時に誰かの成功や無我夢中の様子をねたみ、さげすむ「軽蔑」

それこそ、出る杭、または出ようとする杭に対して、
「あっち行こう」と周りを連れて行って
影で仲間を集めることだと思う。




**



そういうわけで、
今「打たれている」と思っているひとに対して、こそっとぼくが言うのは
「それ本当に打たれているのか?」ってこと。


意外とみんな「無関心」と「うらやましがって」いるだけで。
それを「徹底的な邪魔者」みたいに変に意識すると
もっと敵になるし、じぶんのやりたいことを怒りで見失うということ。


そしてもっと見つめたい現実は
そういう無関心やうらやましがるひとを
いずれは巻き込む必要が出てくるって話で。

けどそれは難しいことじゃないと思っていて。
そういうひとたちって
関心を持ったりじぶんもその中に入れると思ったら
一気に仲間になっていく。


ぶつけようのない怒りや必死さが、世の中には満ち満ちている。
だからこそ、やりやすいと思うし
だからこそ、やりづらいと思う。




出る杭は打たれない。
あとは無関心と軽蔑、それらとどう向き合うか。


人生をかっぽしよう

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