ブスなんだからせめて?
納得。ブスって考えてみようと思う。
年末、Twitterのタイムラインに、ある動画と一緒にそんなコメントが流れてくる。
「仮定ブス幸福論」という動画。
芸人の山崎ケイさんがテレビ番組で紹介した自論で、数年前に放送された直後めちゃくちゃバズって、その当時見た自分は、たしかいいねしたんじゃないかと思う。
ただ、もう一回見てみたら、なんか違和感だった。
まず、「仮定ブス幸福論」を簡単に紹介すると、こんな感じ。
自分をブスだと仮定してみる。そうすると「ブスなんだからせめて〇〇しなくちゃ」って考えになる。そうするとブスはあくまでも「仮定」、実際はブスじゃないわけだから、自分をブスだと思ってそれらをやれば、「素敵な女性」という事実だけが残る。
時を経て今見返せば、「ブスなんだからせめて」という考え方にぼくは違和感を覚えた。
っていうか可愛そうだなと思った。
「ブサイクなんだから、これをしよう」の向こうにあるのは、「ブサイクなんだからこれくらいしないと周りは認めてくれない」という感覚。自分を満たしてくれるのは他人に認められてこそと思ってる時点で自分を卑屈に感じてるし、自分を卑屈に思ってる人は他人にも同じこと、つまりあなたの孫z内は価値は他人と比べてこうだよってことを当てはめて、卑屈に感じさせてしまう流れを生む。
「してあげることで満たされる」の本心は「してあげなければ満たされない」の裏返し。こういう人は結局のところ不幸になる。満たされるための条件が無限に増え続けるからだ。
ただ、結局のところブスじゃないとやんないのかと、ブスのやつはやれと、人は自分よりも下を作りたがる。「ブスだとしたらやる」は「ブスはやりなさい」という考えを生んで、実はそれが一番醜さを生んでしまう。
「ブスなんだから」じゃなくて、「ブスだけど、幸せです」って思えばいいんじゃないかと思う。これもやらないとと満たされないことを嘆くよりも、今の自分や自分の周りがどれだけ満たされた環境かと肯定した方がいい。こんなに素敵な人や良い人に囲まれてます。と肯定する。肯定できる人間の周りには肯定してほしい人が集まってくるし、肯定されて自分を認めてあげられるから他人も認めてあげられる。
今自分の周りに何の理由もなくいてくれる人に損得なく感謝した方がいい。満たされないものへの承認欲求よりも先に、今あることへの感謝を
無下にしたら、それこそ根性までブスになる。
ブスだけど、性根までブサイクじゃないって大事なのだと思う。
もちろん芸人がテレビで披露する理論だから、極端に笑かしに入っているのだと思うのだけど、どちらかと言うとその理論に「心の底から納得」って世の中になってるのが、なんだかとってもかわいそうだなと思ってしまった新春なのでした。
大丈夫、ブスじゃないから。
だったとしても、なんだよ。
人生を、かっぽしよう