なぜイヤ〜な人間関係に苦しむ人に僕は「君の周りはアフリカ人」と言うのか
職場のやつが、学校のやつが、意味がわからなくてイライラして嫌で嫌でしょうがない。
職場を異動になった女友達が、ある日
前の職場は良かった、今の職場は全然話通じないと言い続けてたわけです。
趣味も合わない。価値観全然違う。全然面白くない、と。
ぼくこういうときにけっこう伝えることあるんですけど、そのときも言ったんです。
その理由も説明したら、彼女はかなりすっきりして「ああ、たしかにね」って言ってました。
「周りの人間、日本人じゃなくて、アフリカ人だと思ったらいいよ」
Cape town, South Africa--bobotie / dragonfiregrill
確かめ合わないと関係が始まらない
最初に断っておくと、これはアフリカンじゃなくてもいい。
何人でもいいんです。
ぼくがそんなことを言い出すようになったきっかけがあります。
前に、この場合はアメリカの人と長くいた経験があるという友人がいて、その彼が言ったんですね。
「お互いの見た目や宗教観、言語が違うから、基本的にあっちは確かめ合わないと関係が始まらないんだよね」と。
それを聞いて、思ったんです。
あ、それはアメリカだけじゃないんじゃないかな、と。
日本でも、同じことがあるだろうし、そう思って周りと接した方が良いんじゃないかと。
以前の記事で書いた
「普通」なんかないんだ
というのも、この話と似たことで、
お互い見た目や生まれが大体は一緒だから同じこと考えてるよね、なんてのは、ちょっと都合よく考えすぎてるし、こっちが疲れるんじゃないかと。
あとは
「わかる」って言葉が凶器にしかならないときもありますしね。
ぼくらは基本的に、最初は分かりえない。理解なんかしてない。
確認していくことしかできないんだろうと思うんです。
そしてそれが積み重なると、「勘」みたいなものになるんだろうと。
つまるところ
他人とはただ単に、言葉が通じるだけだと思った方がいいわけですよね。
違って当たりまえになると世界は変わる
Surprise post for the weekend. Nutritious & crispy! / Michael Khor
それを、たとえて
「アフリカ人だと思った方がいいよ」
と言ったのが、彼女なりにすんなりしたわけですね。
まあ、なぜアフリカ人なのかってことについては、
一応誤解の無いように強調しておくと、彼らを野蛮だから理解できないとか言うわけじゃないです。
そういう、進んでる民族と遅れている民族がいるなんていう民族進化論のような考え方をぼくを持っているわけではなく
アメリカ人にすると、最近はセレブだのなんだのとアメリカ人やらヨーロッパへの憧れと理解みたいなのが流行ってるんで、あえて理解しがたい対象のひとつとして日本人には全体的に馴染みの薄いアフリカ人って言ったわけです。
インド人とか、メキシコ人とかでもいいですね。首長族とか。
もっと良いたとえある人は教えてください。募集中。
そういうわけで、
世界には、いろんな民族とマナーや価値観、考え方があるわけで
突如として飛び跳ねたり、
時間を守らないのは当たり前だったり、
ご飯は残すのが招いてくれた方への礼儀だったり、
女性はおごられるのが当たり前だったり、
「体育座り」のことを「三角座り」って言ったり、
「飯の半田屋」の存在を知らなったり、
そういう人たちがごまんといるわけでさ。
だとしたら、
自分が持ってる価値観とか趣味とかを、
相手も持ってるはずなどと期待すると疲れちゃうわけです。
この際、違って当たりまえと思って
「留学して現地の人の文化を学んでるんだ」って感覚くらいで生きてみると、
まあちょっとは楽になると思うんですよね。
***
他人は、理解しているものではなく、理解していくもの。
最初はみんな未知なる存在。
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