「意識高い系」であることを恥ずかしがっている方々へ
ぼくには、はじめて会った人に「大地さんは意識が高い学生ってので有名でしたよ」と言われてむっとした経験がある。
その意味は、かなりネガティブっていうよりも、どこか指をさして笑うような感覚に似ている。
ぼくも大学生の頃はよく言われたし、じぶんの知らないところで言われていたということをよく聞いた。SNSってこわいね。
最近、安保法案で話題になったSEALDs(シールズ)叩きとか、「どうして解散するんですか?」の小4偽装サイト問題でも同じような匂いを一部で感じてて。
で、あまりにも言われるからこう言うようになって。
「ぼくは意識が高くはありません」
同じようにして、ほかの人たちがその看板を取ってもらうようにいっているのも聞いたことがある。
「私、意識高い系じゃないので」
「うちは意識高い系じゃありません」
今思う。
というか、やっぱり思う。
意識高いことを恥ずかしがるなんて、おかしかった。
そもそも意識が高いとは?
「意識が高い系」というのも色んな意味があって困る。
「意識高い系(笑)」と表記するという人もいる。
常見陽平氏はこう書く
「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たち
ぼくが周りの情報から指している内容を推測したものを付け加えると、こういう人も意識高い系に入るっぽい。
・「アジェンダ」「タスク」「ビジョン」「ミッション」などの言葉を使う
・自由な生活をしようと言って海外を旅する(自分探し的な意味も込めて)
・やたらと「起業」「シリコンバレー」と騒ぎ立てる
・社会貢献活動に精を出し、学業の合間を縫ってPCを開いて仕事をする
・スタバでMacBookを広げてタスクをこなす
ぼくはだいぶ当てはまっていた。
当てはまらないとしたら、マックを何件もハシゴして、チキンクリスプやコーヒーを飲みながら仕事をしていたこと。
あとは、「トーキョーコワイ」って言って宮城からあまり出なかったこと。
他はだいぶやっていた。
MacBookをカタカタしながらビジョンを持ってタスクをこなし、社会貢献活動として大学にシリコンバレーの方を読んだりして大学生を集めた。
意識高い系ランキングなるものがあったなら、ぼくは全国でも群を抜いて高かった自負がある。
しかし、思うのです。
意識が高くて何が悪いの
Yong Tofu - Shark Fin BBQ AUD10 / avlxyz
そういう経歴を持っていて、
さらに東日本大震災直下の世代ということで
世の中へじぶんを関わらせたいと願う学生の方々を見てきました。
また
意識高いという言葉が蔓延したり、ぼく自身がそこから一歩引いた環境で生活したりもして
ぼくは一瞬、意識高い学生を冷めて見たこともありました。
あと、イライラして見ていたりもしました。
そういう中で、いま、意識が高いことに対してぼくは思うんですが
何が悪いの。
と。
っていうか
むしろ頑張れ意識高い系。
と。
そう思うんですね。
だって、
意識高いという言葉だと気づかないんですけど、
彼らは何かしらの「挑戦」をしているわけですね。
「挑戦することに対して意識高い系」ってことでしょうと。
で、挑戦ということになると、今度は「若い人はもっとチャレンジをしよう」とか平気で言いだす世の中やじぶんがいるわけで。
どっちなんだいっていう。
こういう状態で思い出すのは
「何をウジウジしているんだ、失敗しないと気づかないんだ」って言っていたおじさんが、
若い人の挑戦を見た瞬間に手のひらを返したように「そんなんでうまくいくか。若い若い」と言っていたとき
ものすごく腹出しさを感じたってこと。
誰かが何かをやる前って、やる前は「どんどんやれい!」って言うんですけど、その後はむしろイライラするほうが多い。
なんでかって、いざやってみると、そりゃやったことないことをやったり、
ちょっと知識がついてきたりして調子乗ったり周りが見えなくなることもあるから。
ゴールが見えないからわけわかんなくあっちこっち不器用なりに引っ掻き回すのは当たり前で、
タイムラインに調子乗った投稿や不快な投稿が流れてくるのはそりゃ当たり前なんですよね。
けど、そうやって周りから見たらブレッブレでわけ分かんないことを繰り返して、
まるでメトロノームの針が真ん中を探し続けるみたいに右に行ったり左に行ったりしながら、人間って芯を見つけていくんだとぼくは気づいて、
意識高い人間を叩いていた態度を改めました。
本当にすいません。
意識が高くないとこの国はつぶれる
そもそも、「どうして意識高い系を叩く流れがあるんだろうか?」
そういう質問に対しての紀里谷氏の言葉は、本当にハッとします。
楽だから。バカにしたって、生きていけるから。日本が何にも食べるものがない社会だったら、みんな必死になって食べ物を探すと思いますよ。食べ物を探しているやつに「お前意識高いな」と言いますか? 沈没しそうな船から脱出しようとしているやつに「お前意識高いな」と言いますか?
そういったことが言えるのは、平和の証だから良いことかもしれない。ただ、そうしているうちに船が沈んでいることをわかっていない。だから僕はそういった人たちと関わらないようにしていますし、そういった人たちはその船と一緒に沈めばいいと思う。僕は「船の外に出たい」という人と一緒に何かしたいし、性別・年齢・国籍に関係なくそういう人とつながっていって、船を出てもっと素晴らしい何かをつくることもできるんじゃないですか。ただ言わせてもらうと、その「意識高いね」という感覚は、末期的症状だと思う。
ある程度満足なこの日本という国だと、本当にその通りなんですね。
出る杭について書いたこの記事でも引用した
政治学者のトクヴィルのこの言葉を思い出します。
トクヴィルお兄さんはフランス革命以後の民主主義社会フランスを見てこう言うわけです。
現代の真の悪夢、それはこれから先何に好悪をもつべきか分からず、ただ軽蔑するだけだということです。
ある程度満足が勝手に実現されて、エネルギーのやり場に困った人間は、軽蔑にエネルギーを使う。
「中途半端に満足社会」では、頑張る人と足を引っ張る人に分かれますし、どちらかと言うと足を引っ張る人が多くなると思います。
で、ネットで発言機会やネガティブ発言をシェアしやすいから、余計にそれが膨らんでいく。
そうすると、どんどん頑張る人の量がしぼんでいく。
世の中ってわけわかんないことに挑戦してくれないと面白くならないんですけどね。
ニコ動とか、Googleとかみたいな人らを。
東日本大震災の時だって、そういう学生らがいないと農地復興も海岸清掃も進みませんでしたし、支援に必要な情報だって流れませんでした。
意識が高い人らの挑戦しよう、前進しようとする力ってのは、それだけ社会が前進する潜在能力を秘めているんだってこと。
ただ、意識の高い人のことを称賛してきましたが、そうじゃないときもあってもいいと思うんです。
叩きたいなら叩いていい。ただし、しっかりと叩け。
Banquet @ Golden Bridge - 50 Bowery / wEnDaLicious
ここまで意識高い系の良いところ言ってきましたが
じゃあなんだ、おまえは気にくわない意見も頑張れって応援するのかと。
それにはこう答えます。
じぶんに不都合な意見なら、思いっきり批判なりネガキャンする!!
だって、放っといたらじぶんに不利益な世の中なんてイヤだし。
もしも「独身者には高負担前進しましょう!」とか言われたらマジでカンベンなんで高らかに反論しますよ。
あるいは、利益団体作ったり根回ししてそれが実現しないようにしますよ。
シールズがやっていることに対してはものすごい反対しましたよ。
そうやって、挑戦しようともがくことには賛成しますが、内容については気に食わなければ実現しないようにガンガン闘ったれ、というのがぼくの意見です。
だから、意識高いこと自体で批判したりネガキャンしたりしないで、その人らの訴えてる何が気にくわないのかでしっかり反論したりネガティブなこと言って行かないとねって。
それがないなら
「意識高い系」と言って叩くのは、ぬるま湯に浸かりたいか自分の地位を守りたい人たちの盛大なネガティブキャンペーンってことになるわけで。
***
「意識高いこと」自体でネガキャンするのはおかしいでしょと。
それは道徳として良い悪いじゃなくて、長期的な面白い世の中になるという損得の話。
意識高い人をその都度つぶしてたら、ぼくらにとって面白くない世の中になってしまう。
だから
ちょっとイラっとしても、ちょっとうざったい使いまわしてしてても
「ああ頑張ってんのね」って思うようにします。
頑張れ意識高い系。
なかなか行動に移せない意識高い系はこちらのゴーレムの倒し方をどうぞ。
机上の空論になりがちな方にはこちら
それでも意識高い系が嫌いな方は感情論の防ぎ方を
www.jinseikappo.com