フリーター、コンビニで投資家になる
ぼくのお金よ、誰かを笑顔にしたまえ。
といつも思いながらお金を払う。
便利な時代になった。
募金箱を探さなくても、店頭に置いてあるファミポートやロッピーからピピっと操作すると募金できる窓口が何個も見つかる。
けれども、ぼくは「募金」と呼ばずにいつからか「投資」と呼ぶようになった。
最近とくに投資するのは、『TOMODACHIプログラム』
このプロジェクトは、高校生が短期間海外に行き、現地でコミュニティづくりなどを高校生たちみんなで、見て聞いて考えるプログラム。
非日常を経験した人は、日常に違和感をおぼえ始める。
このプログラムを経験した高校生たちが、帰国後普段とは違う何かに挑戦して、それが「もっと学びたい」という気持ちにさせて、進学意欲を上げたり、社会参加をもっとしたいといい気持ちにさせていることを、何よりぼく自身の目で見てきた。
高校生たちはエネルギーを持っていた。
こういう人が増えれば、ぼくが「何か面白いことをやろう」と思ったときに、きっと「一緒にやろう」と言ってくれる人が増えるだろう。
彼らが社会人になってお金を手にしたら、きっと面白い使い方をしてくれる。
そう思ったら、投資せざるをえない。
値段は500円(ファミマだと1,000円)から10,000円の中で選べる。
言うてもそれほど募金できないから1,000円ほどを選ぶ。
ぼくはあるときから投資家になりたいと思っていた。
どうしてかっていうと、世の中にはものすごい面白いことをやってる人がいて、そういう人がお金がないという理由で何かを辞めていくということを見てきたからだ。
もう少しお金があって、もう少しやっていればきっとうまくいくだろうことが、お金がないばかりにチャンスが消えて、何もなかったかのようにしぼんで、消えていく。
もっとお金を持ったら投資家になろう。
もっとお金を持ったら投資家になろう。
そう考えていた。
投資家になるためにはいくらあればなれるのかもさっぱりわからなかったくせに。
あるとき、知り合いの大学生がプロジェクトをやっていた。
「お金どうするの?」
と聞くと、バイトもう少し頑張ります、と言っていたので、それ生活費かつかつになるじゃんと思った。
ずっと頑張っている人だったから、そのときに持っていた2000円を「足しにして」と渡していた。
いや、もらうわけにはいかないです、と言って遠慮するから、じゃあ余裕できたら返して、それでもいいからと渡した。
でも、あげるよ、という気持ちで渡した。
投資家になりたいじぶんとしては、満足感とちょっとした優越感みたいなものがあった。
おお、いま投資家っぽい、じぶん。
あれ……?
いいんじゃね……?
投資家って、これでいいんじゃね……?
いや、厳密には投資家ってのは違うもので、投資した分を回収したりプラスのリターンを得流ものなのだけども。
それでも、じぶんがどこかでずっと求めていたのはそういうことだったんだと、投資家のまねごとをしたカフェの帰り道、思った。
今でも、お金に余裕のあるほうじゃない。
5,000円の飲み会とか参加を踏みとどまってしまうしなぁ。
けど、毎月誰かに「そりゃ!」と選んで「頑張れよ」とお金を渡すことは、なんだかじぶんも頑張ろうと思えるし、お金を渡すからにはじぶんもその投資先を観察しようという責任が出てくる。
責任を持つということは、苦しいことだけじゃない。
何かをしょい込むことは、関わることだし、強さだし、信念だし、楽しさだし。
ぼくにとってのお金はしょい込む権利みたいなものだったりもする。
数ヶ月後、2,000円をあげた大学生と会ったときに一緒に天丼を食べた。
会計のときに一応先輩なので払おうとしたら、おそろしいほどかたくなに財布を開かせず、会計をガードするように後輩は会計を済ませてしまった。
なんで?みたいな顔をしていると、前に2,000円もらったので、と後輩は言った。
ぼくにとって投資のリターンはなんだかそんなもんでいいのかもな。
人生をかっぽしよう
こちらもどうぞ