僕が「評論家」気取りだったとき。忘れていた「ぼくら」という主語
思えば、あのとき、ぼくの言い方は単なる評論家気取りで、
まわりの人をどんどん孤独に、どんどん心細くさせていて。
偉人のスピーチは、ちがって。
そこには「わたし」も「あなた」もいたから。
スピーチの本を読んで気づいたこと
#latergram 大海老天そば460円、そんなに言うほど大きくない / yosshi
待ち合わせ時間を持て余し、入った近くのコンビニで、
何気なく目に入った偉人たちのスピーチの本をぺらぺらとめくる。
人を動かしたい。
当時のじぶんは、四六時中そればっかりが頭のなかにあって。
だから、そのときは無意識だったのだけど、
何か彼らのようにたくさんの人たちを突き動かすヒントを、
探そうとしたんだと思うんですけど。
ページをめくればめくるほど、ふつふつと力強くわくわくする気持ちが起きてくる。
やっぱ、偉人ってのはすごいなあ。
そんなふうに感心しながら、
まるでじぶんがその時代にいて、たとえば、
黒人の人権無視に立ち向かうキング牧師を目の前にするかのごとく、
あるいは、革命家チェゲバラを目の前にするかのごとく、
あるいは、アメリカは変われるんだと勇気付けたオバマのごとく。
からだのなかに血が沸き立つような思いに突き動かされていて。
彼らのことばの、何がちがうんだろう。
そんなことを読みながら疑問に思い、ことばの共通点を見出そうとする。
そうして
人を動かすスピーチのなかに、ある共通点を見つける。
それが
主語が「私たち」=「We」
というものがたくさんあること。
読んでいたときに、溢れ出してくる前向きなエネルギーというか、力強さの原因は、これか、と。
心細くない、だってみんな一緒だから、という感覚。
そうだ、ぼくが変えるんだ、変えられるんだ、という感覚。
それが、「わたしたち」=「We」という主語があるからなんだと、気づいたんです。
主語が曖昧だから伝えたいことも曖昧になる
時間が来てから、パタンと立ち読みのその本を閉じて、
けどまだ、あたかも目の前でされていたようなスピーチのことばの余韻が消えず、
ふりかえるのは、じぶんが仕事やら恋人らに、かけていた言葉の数々。
きっと、何の気持ちも沸き立たなかっただろうなあ。
なぜかって、ふりかえればふりかえるほど、
ぼくの言葉には、「わたしたち」はなくて、そこには「だれが」すらなかったから。
「来週までにこれ間に合わせないといけないわけでしょ?」と仕事仲間に。
「1ヶ月に一度は出かける時間つくろうって話したよね」と恋人に。
こうやって「だれが」という主語すらない言葉ばかり。
日本語はとくに主語が省略されやすい言葉とも言われるわけで。
そうすると、これはだれがやることなのか。
だれが頑張ればいいのか。
じぶんひとりが頑張ればいいのか。
気持ちが落ち込んでいる時はとくに、
悪いほうへ、悪いほうへと主語が切り替わる。
そうして「わたし」と「あなた」が切り離される。
「あなたが、来週までにこれ間に合わせないといけないわけでしょ?」
「あなたが、1ヶ月に一度は出かける時間つくろうって話したよね」
ついには、孤独になっていく。
「結局、『わたしが』悪いのか」
「『わたし一人が』頑張らないといけないのか」
「だれが」という主語すらない言葉ばかりのぼくは、伝えたい人たちからしたら、
きっと単なる「評論家気取り」だっただろうなって。
一緒なんだよという意識を与える
炭水化物補給です(^o^) かけそば@1.5倍 / Kanesue
だから、そういうときこそ、
「わたしたちが」をきちんと言ってあげる。
「わたし」と「あなた」を切り離さずにくっつける。
「だいじょうぶ!一緒でしょ」
「一緒に越えてくんでしょ?」
「よしふんばろう」
不思議なことだけれども、
「わたしたちは」と主語を言うだけで、
じぶんすら再確認する。
一緒にやってんだ、と。
主語を消していると、いつの間にか、じぶんすらも関わりを消してしまっていることに気づく。
そういう意味でも、一緒だろ、他人事じゃないだろ、とじぶんの背中すら押してく。
***
たとえば、
目の前のだれかがふがいなく思ったとき、
どうしようもなくイライラしたとき、
責めたくてしょうがないとき
しっかりと言うようにしているのです。
「ぼくらはさ」と。
そういうとき、ぼくはちょっとだけ偉人になった気分。
まだ道のりは遠いけれど。
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