「またね」はいつだって意地悪だ
「ついたら、電話するからね」
と言った。電車が動いて、思わず女性が涙と鼻をすする音がした。
この時期、電車に乗っているとたくさんの別れに出会う。
別れを見るのは辛い。なんだかぼくも別れた気になってくるんです。
お盆などの長期休みを使って
兄弟、家族、友人、恋人
いつもはそばにいない人たちが、しばらくそばにいる。
先日も、中年の女性が二人の離ればなれになる瞬間を見てしまいました。
電車のドア越しに、時間になるまで
握手をしたり「ありがとう」と言い続ける時間が
何だかぼくもたまらなく愛おしかったのであり
その二人の関係は分からなかったけども
きっとずっと会いたくて会えない関係だったのだなあと思う。
大丈夫ですよ、きっと二人はまた会えるますから。
何にも知らない自分がそう心の中で思う。
「また電話するね」
「また手紙書くね」
「またメールするね」
「またLINEするね」
どんなに現物に近いコミュニケーション方法が発達したとしても
「またね」の合図で
相手が離れていく姿はいつの時代も哀しいものですね。
ぎゅーっとくっつけばくっつくほどに
そして相手を感じれば感じるほどに
「またね」の合図で、ふっと軽くなった感覚が強くなる。
寂しさはいっそう強くなる。
ドラマ『篤姫』で印象的な台詞があるんです。
大奥を出て生活の苦しさもあり、身近な人がいなくなる寂しさを
天璋院が小松帯刀に打ち明けるシーン。
天璋院「さみしゅうございます。お城を出て、大事な人が、次々にいなくなっているのです」
帯刀 「人はいなくなるのではなく、また会うときの楽しみのために、
ひととき、離れ離れになるだけのことです」
ぼくらは
こんなことなら会わなきゃ良かった。
と思って寂しくなるのではなく
きっとまた会おうね。
と思って寂しくなる。
それはとってもきれいなものだけれども
当の本人になると、やっぱり、行き場のない感情が全身をつたう。
この時期、色んな駅でそれがたくさんあることに
無性に胸がきゅーっとしめつけられて
どうか電車をもうちょっと待ったれ、と思ふのです。