別れるときにこぼれた本音。彼氏「かっこいい自分しかみせていなかった」
「別れよう」と切り出されてから、タクシーに乗り込むまでの恋人ではない数時間、今までには聞けなかった、話せなかった、いろいろな話をした。
ほんとうに趣味悪いことに
大切な人との別れ際の文章ってなんてキレイなんだろう、
と思ってしまう。
ああ、罵倒するがいいさ。
別れる瞬間、お互いの答え合わせがやっと始まる。
それで悲しいかな、その瞬間いちばんお互いが分かり合えた気がする。
ぼくらは「恋人」を勘違いしてしまっている。
「恋人」なんだから素の自分を見せ合っているし、見せ合うべきだと思っている。
それができないなら、嘘つきだと思ってしまう。
「嘘ついてごめん」って言う。
<目次>
ぼくらは演じ続ける
『しんとこグルメ』親子4世代が集う、とんかつの名店 / noishi_d
彼氏は「かっこいい自分しかみせていなかった」と言った。
彼氏はすごく優しい人で、私と出かけるときは万全に予定をたててくれたし、いつも私のことを思いやった行動をしてくれた。 にもかかわらず、数日会っていないとどんな人だったか忘れてしまうような、何だか不思議と印象の薄いようなところもあった。
それは彼の言う”本当の自分を見せていなかった”ことが理由の一端であろうと思った。
「演じること」
日常生活で、そのことに対してとても罪悪感を感じてしまう。
「素のじぶん」というものを、ぼくらは「真実」だと思いこんでしまう。
だから、その真逆にある、
「演じているじぶん」というものを、「嘘をついているじぶん」ということで、
それを作り出しているとき。ものすごい罪悪感をもつ。
それがとくに、恋人や家族という身近で親しい人に対して演じてしまうと、よけいに。
けど、「本当のじぶん」「素のじぶん」なんてどこにあるんだと。
そこにあるのは、「その人に見せていないじぶん」なだけであって、
演じていようが、ペルソナだろうが、じぶんの中にひとカケラでもある部分が出ているわけで
それはじぶんだよ、と。
ただ、
親しいひとに一面だけを見せ続けること。
これは危なっかしいことだとは思うんですね。
大切な人を他人の目で見ていないと別れやすい
年齢が離れていて、学校や会社など共通のコミュニティーを持っているわけでもない私たちは、お互いのことをいくらでも切り貼りできたし、誤摩化すことが可能だった。
つまり、私は、彼氏という人の、”核”の部分を掴めていなかったのかもしれない。
「素のじぶん」なんていない。
それはたしかにそうなんだけども、
どこか無理してじぶんの一面だけを見せ続けることは、
関係を作り上げるなかでとても難しいことだと思うんです。
ぼくも恐怖でした。
外にはものすごいかっこつけてるけど
内側はものすごい体たらくで、
なよなよしていて、
朝も全然起きれないし、
部屋も片付けられないし、
根暗だし、
1円貯金をするのが趣味だとか
マジでどれか知られたら、みっともない、もう破滅だ、と思ってて。
そういうじぶんを恋人に「いつ言おうか。いつ言おうか」と困ってたら
なんとなく居心地が悪くなって別れを選んでしまったっけ。
今回の話もそうだけど
コミュニティのなかで、だれか他者を通して彼を見たなら、もう少し距離感ってのは変わっていたのかもしれないな、と。
ぼくらが他者を見るとき、それはどうあがいても限界があるわけで、
ほら、あるじゃないですか、
「魚を描いてください」
と言われると、多くの人が横の姿の魚を描くんだけども
ほんの少しの人は魚を正面や上から見える姿を描くんですよ。
100人いれば100通りのその人の側面があるのに
「ぼくから見えるあなたが、あなた全てだ」
なんていうのは、ものすごい狭い見方をして、
それ以外のその人の一面が見えたとき、たとえば
ものっすごいマヨネーズが好きだとか、
ものっすごいギャンブル好きだとか、
四六時中下ネタしか考えてないとか、
そういう一面が見えたとき、拒否感がダイレクトに出てしまう。
それを他の人の目を借りて
「ああ、この人、こんな一面があるんだあ」って
日々発見みたいなことをすれば、相手もだんだんじぶんに隠している部分を少しずつ見せてくれる。
他人の目がたくさんあるコミュニティに所属できないんだったら、
二人でできる限りいろんな場所に行けば、
そこに他者がたくさんいるから、
意外な一面がきっとたくさん見れるし、
相手もそういう一面を少しずつ出していけると思うんです。
ぼくのまわり、旅行たくさん行くカップルがうまく行ってるんですけど
これってそういう理由なんじゃないかと。
付き合ったからって距離はぜんぜん縮まっていない
Okinawan noodle with goat meat / 山羊(ヒージャー)すば / jetalone
今になって「他人によく見られたいから、良い所しか見せられないんだよね」と、別れたあの夜に少し寂しそうに自分のコンプレックスを語った彼
「付き合いましょう」
「はい、お願いします」
恋人になると、ぼくらは「あなたのすぐ隣に行けた」と勘違いをしやすい。
けど、「よろしくお願いします」なんて
ふたりの関係における、大きな大きな、飛び越えるような一歩だったのであって
それで、晴れて距離がなくなって隣にいるなんてことはない。
実際のところ縮まった距離よりも残された距離のほうが、長く長いもので。
少しずつ、「こういうことで怒るんだ」とか、相手に向かって意外な一面を見せて距離を縮めたり、
たまに「近寄りすぎだよ」って思って相手に連絡せずに距離をとってみたり、
そうやって、ちょっとずつ、ちょっとずつ、お互いに近づいてく。
むしろ、そういう「距離を縮めていくこうという関係」になっていることを嬉しく思いたい。
けど、「もう無理」「距離縮められない」って思うと
「もう限界」て言って別れを選んでいく。
そして、
それが最後、答え合わせみたいに噴き出してくる。
「じぶん実はこうだったんだ」
「このときこう思ってたんだ」
「ごめんね」
と。
だったら最初から言えばいいのにって思うんだけど
それは怖くて言えない。
だって、大切な何かを、じぶんの姿を見せることでガッカリされて、失ってしまったら悲しいから。
***
それでも、あなたが演じていたわけではない優しさでこっちが救われた事は多分にあるはずだし、
何より演じていたとしても構わず、とてもよいものだったということを主張したい。
演じたってぜんぜんいい。
演じることがすべて悪いわけじゃない。
そういう一面「も」あるんだって、ふたりで気づいて、見せ合ってくことなんじゃないかなあ。
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