大切な人と良い関係をつくる人は、なぜこの言葉を大切にするのか。
先日、知り合いのご夫婦と一緒に食事をしに行ったときのこと
何の流れかは忘れてしまいましたが旦那さんが
「おれは◯◯ちゃん(奥さんの名前)に料理を作ってもらうこと当たり前だと思ってないから」
とポロっと言いました。
そのご夫婦はお互いに好きなことをして
さらにはお互いが協力してひとつのものを作るときもあります。
それは「当たり前ではない →有り難う」の言葉を使うからなのだと思いました。
「有り難う」と言う — 妻が料理を作るのは当たり前ではない
「料理を作ってもらうこと当たり前だと思ってないから」
「料理作ってもらうために結婚したんじゃないし」
「だから何でも『有り難う』だよ」
旦那さんの言葉より。
有り難う(ありがとう)—
ありがとうの語源は、形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く」がウ音便化したものである。「有り難し」とは、本来「有ること」が「難い(かたい)」、すなわち「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味であった。『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり「過ごしにくい」といった意味でも用いられている。
滅多に無いから有り難い。
では、なぜ大切な人との関係で大事な意味を持って来るのでしょう。
僕は次の2つの理由のように考えました。
理由1:「当たり前ではない →有り難う」が相手を幸せにする。
当たり前と思わないことで相手への感謝の量が増えます。
その感謝を「有り難う」という言葉にします。
感謝を示すことで、相手は「やって良かったな。またやろう」と思います。
こんなに安価で、簡単で、だけど大事な感謝の示し方は他にありません。
有り難うの感度を低く持つことで、相手に与える感謝も多くなります。
どんな些細なことでも有り難いことだと思うことで
その分、相手に与えられる感謝の量も増えることになるんですね。
ただし些細なことでも有り難うと言っていたら嘘くさくならない?
と思ってしまいます。
けど、嘘をつけということでは無かったのです。
例えば、皿を洗うにも日々条件は違う。
日々条件が違えば自分なりに頑張っている日もあります。
ちょっと時間がない中で皿を洗ってくれているかもしれません。
嘘で有り難うと言うのではなく
きちんと相手がどんな状況で頑張ってくれているかも見た上で
「こういう中で、有り難う」と伝えます。
「自分のことをきちんと見てくれている」
そういう感覚がより強い幸せを呼ぶのだなあと思います。
理由2:当たり前ではない →有り難うが自分も幸せにする
イライラしなくなる
当たり前ではない →有り難う
と考えることは自分ばかりが努力して何も得をすることはない
と思ってしまいます。
けど、違います。
自分がどんなに小さなことでも感動すること。
それは自分自身が幸せになりやすいということです。
想定以上のことをされると喜びます。
逆にこれしてもらえるはずだと思っているのに
してもらえないとショックですし、ストレスになる。
だから、相手がしてくれることを過剰に期待しすぎないし
やってくれることは当たり前じゃない、有り難いと思うことで
自分がイライラしないで過ごすことができます。
相手に返した「有り難う」は相手に更なる頑張るエネルギーを生む
感動は感動を呼びます。
本気の「有り難う」という感動が
相手の感動を呼び、「もっとやろう!」と思わせます。
ドーパミンとかそこらへんが関係してるんだと思いますけど…
自分にとって嬉しいことをしてもらった感謝を相手に示せば
相手はその行為をもっともっとしてくれます。
まさに「情けは人の為ならず」
そしてまた自分を幸せにする
大事なことは
幸せの一方通行にしないこと。
自分を幸せにすることが
相手も幸せにして
それがさらに自分を幸せにする。
「当たり前ではない」が「有り難う」を生み
それが相手の喜びを生み
更なる「有り難う」を生んでいく。
こういう関係が長く太く続く関係を作って行くのですね。
僕も今回の話でそこをよくよく考えました。