ピカソの泣く女がどうしてあんな変な絵になってしまったのか
ゴッホの杉の絵がなぜあんなにゆがんでいるか。
ピカソの泣く女がなぜあんなに変な構図で描いているのか。
昨日、友人とイチゴを食べて語らった。
そこで言葉を持つって大事だよねって話になった。
例えばいちごと聞いたときに
どんなイチゴを想像するのか
どんな言葉で表現するのか
言葉の限界が自分たちの世界の限界だ、と語る。
言葉を獲得することで世界を見ようとする。
言葉が分からなければ表現できないことがある。
表現できないとは誰かに伝えられない可能性があるということ。
僕たちは言葉を使いながらこの世界の見方を獲得して行く。
けど、言葉なんて曖昧だ。伝わりきらない。
「鼻血出るまで頑張れ」なんて言うと
本当に自分の伝えたいことが一部ねじ曲がって伝わってしまうことがある。
削ぎ落とされて伝わる。
例えば「好きだ」と伝える。
自分の頭の中にある気持ち、体の中に広がる気持ちは
そんな3文字で伝えきれないなんて多くの人が思う。
自分の中にあることを言葉で表すと、なんて小さくなってしまうんだろうか。
自分が伝えたかったことはこんなにちっぽけだったんだろうか。
そう思って人は様々に表現する。
ある人は歌を歌い、ある人は字を描き、ある人は踊る。
僕らは世界を見やすくするために言葉という眼鏡を使ってみる。
色彩を見るために色に名前をつける。
だから虹の色が7色の地域もあれば8色の地域もある。
同時に言葉を持つことで世界のどこかを無視している。
イチゴが赤だと言った瞬間に
イチゴの少しだけ黒い部分が気にならなくなる。
それを気にする人を変だと言う。
なぜゴッホの杉が歪んでいるのか。
それは彼が杉の木を見たときに何とも言えないおぞましさのような、恐れのような
そういう何かを感じ取ったからなんだろう。
陽気な天候の中、杉がそびえ立っている。
それは普通、人に穏やかさとか力強さを与える。と思っている。
ゴッホはそれに疑問を投げかける。
君らにはそこにある恐ろしさを感じないのか、と。
なぜピカソがあんなに変な顔を描くのか。
彼のキュービズムは人を一面的に描かない。
まるでルービックキューブを見るように多面的に色んな色で世界を見る。
正面から見たのが僕らの本当に見ているものだと思わない。
泣く女には同時に泣く後ろ姿があり、横顔があり、つむじから見える顔が、それ以外がある。
彼はそういう彼の絵を変だと思う人に、疑問を投げかける。
変だと思ってる君らが変なんじゃないか?
何を世界を見てる気になっている?
と。
それを文学の世界で表現したのが村上春樹だ。
彼は『アフターダーク』の中で物語の語りの視点を一つに統一しなかった。
一般に物語を語るには視点が必要だ。
主人公が語るのか、あるいは別の登場人物か、あるいは作者か。
その一つの視点が物語のありのままから何かを削ぎ落としてしまう。
語りの視点からしか見えないものしか表せなくなる。
彼はそれを混乱させた。
語っているあなたは誰で、どこにいるの? と思わせる視点から語りつづける。
いわば小説でキュービズムを表現しようとしたのかもしれない。
そうやって多くの人の表現を僕らが理解していこうとすること
そしてその人の見る世界を共有して少しでも世界全体を理解しようとすること
これを僕らは対話と呼ぶのだろうと思う。