ブログに救われていたのは僕だった
週末、たまったワイシャツの襟を石けんでこすって、洗濯機に放り投げる。
次のワイシャツ、次のワイシャツ、とリズム良く。
洗濯機のスイッチを入れて、洗剤を流し入れる。
無理強いしないような軽やかな香りが漂って、心地よくなる。
ぐるんぐるんと、ワイシャツが右に左に回り出す。
就職して企業人になってからというもの、ご存知のとおりブログをそれほど書けなくなった。
いや、どちらかというと、書かなくなったというほうが正しい。
時間がないかと言えば、いやむしろ全然あって、
書くネタがないかと言えば、いやむしろ日々全然あって(就職先のネタ以外で)
それでも、どうしてもブログを書く気が起きず、気づくと、1日、3日、1週間…と日々がざらつきも残さずに過ぎていってしまう。
ある程度は書けなくなるだろうなとは思っていたものの、ここまで書けなくなるとは思わなかった。
今なら、もう一度
「ブログ、書きたくても書けないんです」
と言いたくなる人の気持ちがわかる。そんな気がする。
ここ最近はもわもわとしていた。
何にもわもわしていたのかは、はっきりとは分からない。
ひとつひとつ分解していけば、それはきっと仕事のことだったり、人間関係のことだったり、じぶん自身のやりたいことだったり、たぶんもろもろとあるんだろう。
だから、厄介ってのもある。
ただ
先日、夜の信号で赤信号が青信号に変わるのを待っていたとき、ふと思ったことがあった。
それは、
ブログに救われていたのは何よりもぼく自身だ
ということ。
思えばたくさん感謝のコメントをブログに向けていただいてきた。
ぼく自身、
「真夜中で誰にも相談にのってもらえない、相談できないときに、読んですっきりすること」
を大切なメッセージとしてブログに書いてきた。
だから、そういう感謝のコメントをもらえると、じぶんの取り組みが少しでも意味があったのだと嬉しくなった。
だから、もっともっと書けることは書いていこうというエネルギーになった。
それは今でも変わっていないのだけど。
けど、
毎日、ノートとペンを持ち、じぶんの頭の中にある言葉を書き出し、PCできれいにかたちづくり、あくせくと何かをつくりだしていく。
そして、その出来上がったものを見て、「そうか、じぶんはこんなふうに考えていたのか」と、まるで他人の意見を見るかのようにじぶんの考えをもう一度見つめる。
そうやって、じぶんの明日からの行動や言動が少しだけすっきりする。
「ぼくは人間が好きだ」と書けば人間が好きなじぶんが出来上がるし、
(そんなこと一度も書いたことないけど)
「ぼくは恋愛に溺れて死んでもいい」と書けば恋愛に溺れて死んでもいいじぶんが出来上がる。
(そんなこと一度書いたことないけど)
それが誰かに向けたものだとしても。
書くことで、じぶんを作り上げてきたんだな。
書くことで救われていたのは、何よりもじぶんだった。
なんつーか、こういう感じで書くとこのブログ最終回みたいな感じになっちゃうけど、
最終回ではありません。
ワイシャツを干しながら、浮かんだ言葉を、ブログに書こう。
人生をかっぽしよう
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