シェアする用の写真を撮る自分は、だいたい最初からできている
自分が感動したい台本は、事前にできている。
松島に、趣味の温泉に行ってきた。
いつもとは違うところを歩くので、いつもとは違う風景が見える。
日本三景・松島。
やっぱり美しいまちが続く。
ちょっと坂道を登って、振り返る。
すると、そこには海がある。
うおお、すげえ。
写真に撮る。
気持ちも晴れやかになる。
子供が自分に笑いかけてきて「おう、元気?」と心なしか瞳知らない自分がいる。
なんて素敵なんだ、松島。
と、そう思って写真を撮っていたときに、
ひねくれた自分が出る。
「おまえ、自分がそう見たいからそう見えてるだけじゃね?」
駅を出た時から、きっとお前は自分が見たい「ザ・松島像」を作り出して
きっと、友達にシェアするための綺麗なストーリーが出来上がっていて
「ほら〜こぉんなに綺麗な風景が撮れたよ」
とか後でシェアする用に撮っているだけだ。
そういう姿が「見える」んじゃなくて
そういう姿を「見ている」だけだろう。
最初から持っていた偏見を、自分の体験で完成させるために、
シャッターを切っていただけだろう。
きっと土地だけじゃなくて、人も、そうで。
「きっとこの人こんなんだろうな」と思ったら
その偏見を完成させるために
「やっぱりこういうこと言われた」
「やっぱこいつ馬鹿だった」
という部分の体験しか見ないと決め込んでいる。
そして「そうであれ」と圧力や暴力さえ加え始めていくんじゃないかなと。
いや知らず知らず加えてるんだろうと。
感動する台本だけではなく、
やっぱりあの人を嫌いになる台本も、
だいたいは最初からできているような気がする。
その予定通りの未来をつくることで、思い通りが、安心感をつくる。
だから、それを全て悪いとは言いたくない。
けど
そういうことばっかりしてると
いつか見てない部分から反撃を受けるんじゃないかと、思った。
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