いつもならどうでもいい人。
なのに、ちょっと寂しい気持ちに連絡をくれる人ってのがいて、困る。
昔ふったけどあきらめずに連絡してくれる人とか
別れたのに定期的に連絡してくる人とか。
むしろしつこいと思っていた人とか。
「最近どうなの」
とか言ってくる。
充実した日々なら既読でもつけて無視する。
けど、ちょっとばかりの不満な日々についつい返信の指が動く。
タイミングという運命は人を盲目にする
人肌恋しい時期が始まる。
そんなときに、
じぶんのこそっと空いた孤独に
すこんと入るようなタイミングの良さは、たまらない。
そうして、自己正当化したりする。
「あのとき、本当に寂しいとき連絡をくれたのはあなた」
「だからあなたしかいない」
なんて。
タイミングが合うってのは、運命を感じやすい。
運命は物語をつくり、ひとは自分を物語の主人公にしたがる。
しかもけっこう、悲劇から救われるような主人公。
ぼくもそんな主人公のひとりになりたがり。
けど、実はその運命の物語のスタートが、悲劇の始まりにもなる。
運命がスタートになると、悲劇を生む
2013-09-02: (244/365) Yoplait yogurt with M&Ms P1140830 / lundyd
こうして、「運命」がスタートだから、
心のどこかでいつも相手には「運命」やら「奇跡」やら、
そういう「ばっちりのタイミング」を求めるし、
それが返ってこないと
「あのときはあんなにタイミングよく言葉をくれたのに!」
なんて相手を責め始めるから。
要するに、ミラクルがふたりの接点になっちゃう。
そこにあるのは過剰な期待。
運命という、先頭打者場外ホームランのようなミラクルから始まる華々しい物語の先に待ち受けているのは、
「毎度ミラクルを起こせないと減点」という、悲劇。
けっきょく、そうやって運命の物語から始めると、
最後にはじぶんが苦しんでるんですよね……
***
今思うのは
そんな先頭打者場外ホームランなんてミラクルを狙わなくてもいいんだと。
そんなものは人生に一回あるかないか。
だから、ぼちぼちのヒットで始めて、
ぼちぼちの満足くらいで良いのだと思う。
人生を、かっぽしよう
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