最後
最後ってのが近づくと、最後なんか来なきゃいいって思う。
最後が見えないと、早く早くって思う。
それは本当に何にでも言えてしまうかもしれない。
昔聞いた、そんな言葉を思い出す。
生きていれば、きっとどこかで会えるさと分かっているけれども、
それでもまた明日も、とか、それでもまた来週も、とか、いつものところにあなたがいないことがわかるから、そのすっぽり空いた時間を想像して、悲しくなるんだろう。
ひとつひとつの仕事が終わる。
ひとりひとりの方とお別れを告げる。
「お世話様でした」
「じゃあ、また」
と言って、くるりと背を向ける。
ふうっと、息をはく。
他愛ないことで笑った瞬間や、ものすごく喜んだ瞬間、おそろしいほど悩んだ瞬間も、
あっという間に思い返し切ってしまう。
次が来ることを期待する。
きっとどこかでばったりと。
けれど、その次はいつ来るかもわからない。
その次が来ないところにじぶんが行こうとしていることも分かっている。
だから、春はいじわるだ。
何度も、何度も、思う。
春は、いじわるだ。
人生をかっぽしよう
期待?しませんよ、自分になんて
昨日はできたと思ったことが、今日はてんでできないということは多かったりする。
つい昨日は早起きできたのに、今日になってみると全然早起きできなくて、なかなかに布団から出ることができなくて、ついつい9時まで寝てしまったとか、10時まで寝てしまったとか、そんな毎日。
昨日は5分前に行動できていたのに、今日は遅刻してしまったとか、あるいは予定をまるまるど忘れしていたとか、そんな毎日。
ぎゅっぎゅっと灯油缶に灯油をポンプで入れながら「今日は起きれなかったなあ、今日の予定、ちょっと予定組み替えないとなあ」と思う。
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言葉が出てこない
ことば
が、なんだか最近はあんまり出てこなくって、ネタ帳に書くネタはたまっているんだけれど、なかなかにブログを書けないし、ブログだけじゃなくて他のことでもうまく言葉がかたちにならぬ日が続く。
いつもは抑えないといけないくらいわんさか出てくるのに、こうなってくるとわちゃわちゃわめいても、なかなか出てくる気配がない。
頭の中がしんとしている。
こういうときはうっすらとした危険信号だから、しんとした空間に身を置いて、じぶんとしてのリラックスできる飲み物やら食べ物やら読み物やらをゆったりとめぐっていくに限る。ということは、26歳あたりにやっとわかったことだ。
ドキドキしたり焦ったりして待つのではなくて、ゆったりと待ってみる。
そうすると待つ時間がどことなく前向きになったりする。
熟柿主義
という言葉があることを、柳田邦男の著書『言葉が立ち上がるとき』という本を読んでいるときに知った。
熟した柿が落ちてくるのを待つように、良い頃合いになるころを待つ考え方をいうらしい。
素敵な表現だと思う。
柿が熟していく。
「きっと今こうしている間にも熟しているんだろうな」とあれこれ考えすぎるとドキドキして眠れなくなるから、
「いつ落ちてくるんだろうなあ」なんてのんきに縁側でお茶でもしながらちょいちょい柿のことを忘れたほうがあんばいが良いのだと思う。
何かを待っていることすら忘れるほどそのときはそのときでのん気に楽しみながら、落ちてきたら儲けもん、っていう人生を歩みたいなあって思ふ。
から、最近食っておいしかったもんでも貼っておこう。
人生をかっぽしよう