人生かっぽ

人生かっぽ —佐藤大地ブログ

哲学、言葉、人生観、仕事、恋愛、など人生をかっぽするような物語をつむぎます。宮城県 仙台市を主な活動拠点とする佐藤大地のブログです。2014年からEvernote公式アンバサダー。大学院では政治学を研究していました。

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将棋好きよりも囲碁好きのほうが冷酷な人間になりやすいのか?

最近は暇さえあればiPadを開いて囲碁をやっている。

ネットで対戦できる「囲碁クエスト」がだだハマりで、朝起きて数局、昼飯食って数局、帰りの電車で数局、寝る前に数十局、で、絶賛寝不足。ふぁあ。


囲碁クエスト - 初心者も安心の無料オンライン囲碁対戦ゲーム

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開発元:Yasushi Tanase
無料

posted with アプリーチ



9路盤という短時間で決まる盤の大きさでもできるので、ピシピシと打ち続けて気づくと布団に潜り込んでAM3時なんてことはザラです。



囲碁をやってるとひどい人間になるんじゃないかなあ。
何かに愛着を持ちづらい人間になるんじゃないかなあ。



なんていうふわふわとした考えが浮いてきたのは、囲碁が少しずつ分かってきたあたりから。
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人生は「野菜が入りまくったジュース」のようだと思った24時間

24時間が終わってみると不思議と眠くはないことに気づいた。


それでも少しばかりの疲労感が体の中をむずむずと流れ、湯船につかりながら、ここ24時間のことを考えた。


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ぼくが24時間ひとつの場所にいて、来た人と語り続けるという場を仲間と作ってみた。


社会人から大学生から果ては中学生も来てくれて、こんなにもあやふやでイメージがつかない場に60名近い人数が集まってくれました。



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場を作るというのは、そこにいる人たちの化学反応によるところがものすごいある。


主催する人間が中心になるのではなくて、いろんな場所でいろんな人同士が勝手に話して、勝手につながって、勝手に盛り上がって、勝手に次の約束をしたりする。


これは一方的に誰かが話したり教えたりする場所ではそんなに起きないこと。


だから逆に、どれだけ「こんな場所をつくりたい」と思っても、参加者によってぜんぜん違うものになることも、予想をはるかに超える結果になることもある。


作り手側ができることは、ミキサーでつくるジュースで言うところの、ミキサーとどれくらいミキサーをかけるかくらいのもので、「こんなふうなジュースをつくりたいんです!」と呼びかけたら、あとはそれぞれが問答無用でミキサーの中に飛び込んでくるので、飛び込んできた野菜や調味料をある程度混ぜたら、あとはどんな調味料や野菜同士でどんな味付けをしあうかというミラクルは、中のものたちに任せられる。




だからこそ感動もひとしおで、さらには悩むことや考えることも多く、結果としてもっともっとやりたいと思う。




もともとは2年前ほどまでは数年間毎週日曜日やっていた場ではあったので、ある程度の固定ファンが来てくれるかなとか思っていたのだけど、なにぶん2年ぶりということもあり
そして今回は24時間やるということもあり、予想できないことが多かった。




湯船につかりながら、
終わった場のワンシーンワンシーンをふり返って、
あんな良い瞬間ができたなあ。あのときはあんなことがもっとできたらなあ。あの人がああいうことをやらなかったらきっとあんなに楽しくはなってなかったなあ。
とか、ひとつひとつの感動を噛み締めながら、ひとつひとつの原因と結果を数え上げて確かめていた。


そうしてどんどん、そもそもやるきっかけがどうだとか、数年間やった場を閉じたときはどうだったとか、2年前にやっていた場はどうだったとか、さかのぼりにさかのぼっていた。





これがなかったら、こんなことにはなってなかっただろう。





ということは、数え出すと数え切れない。


「歴史にIF(もしも)はない」ということをよく言う。
それは歴史という大きな話だけではなくて、自分という1人の人間でも同じで。

もしもを考え出すと、過去はどんどん可能性を広げ始め、ぐねぐねと曲がり、原型をとどめなくなっていく。


そうして過去があやふやになると、現実の「今ここ」という足場がぐらぐらゆれ始めて、破壊されて、じぶん何なんだろうという気持ちだけが残る。






それでも、湯船に浸かりながらぼくがぼくの「IF(もしも)」を考えながら思ったことは、そんな虚しいもんじゃなかった。


それはむしろおそろしいほど頼りがいのある力でぼくの人生の今までの歴史をはっきりとさせて、現在のぼくの背中を押してくれた。
「自信持て、すばらしい、どんと行け」
と。






この違いはなんだろうな、と、思う。

「ぼくのIF(もしも)」と「歴史のIF(もしも)」の違い。



で、思い浮かんだのはこういうこと。


「もしもあったらこうなっていた」
「もしもなかったらこうはならなかった」
という違いがそこにはあって、

今回ぼくが実感したのは
「もしもこれがなかったらこうならなかった」
ということ。


「もしもこの人がこう言ってくれたなかったらやっていなかっただろうな」
「もしもこの人が来てくれなかったらこうはならなかっただろう」
「もしもこの人がこれをしてくれなかったら…」
「もしもこの人がこんな話をしなかったら…」


「もしも」「なかったら」「こうなっていなかった」

そんなことばかりが、ぶくぶくと浮かんでくる。


こういう「もしも」がぼくらのミキサーの中に入ってきてくれて、スイッチをいれたときに、それぞれがそれぞれに好きなように関わってくれて、ジュースになる。
そういう偶然みたいなことが混ざり合ったのがぼくらの過去で、それがたまってきたのが人生。


それが今回は24時間に濃縮還元したけど、人生という長いスパンで見ても、きっと同じだろうなと思った。




人生は、野菜が入りまくったジュースみたいだ。


いや、野菜以外も入れるかもしれないけど。
え…っていうものを入れるかもしれないけど。




そのどれひとつを抜いても、ジュースは成り立たない。



そして過ぎ去ってしまったのだから、過去に足し算もできないし、引き算もできないということを知る。

ウマかろうがマズかろうがつくってしまったのだから、美味しく飲むしかない。




人生っていう野菜ジュースは今この瞬間も作られていて、ミラクルだな。



そういうことを思った、24時間でした。

電車のバスケ高校生が思い出させてくれたあの日のこと、Kのこと

この前、電車の中でバスケットボールを高校生が小脇に抱えていた。

見れば出身高校のジャージを着ていた。


駅の中でバスケットボールを持っていればそりゃ目立つ。
思わずぼくは彼から目を離せずにいた。


一緒の電車に乗るので、多少怪しいながらも後ろからずっと見ていた。

で、その子の友達も一緒にいたのだけど、友達と話しながらもその子はずっとバスケットボールを両の手でさすったり、手の中でぐるぐると回したりする。



懐かしい感覚になる。

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