将棋好きよりも囲碁好きのほうが冷酷な人間になりやすいのか?
ネットで対戦できる「囲碁クエスト」がだだハマりで、朝起きて数局、昼飯食って数局、帰りの電車で数局、寝る前に数十局、で、絶賛寝不足。ふぁあ。
9路盤という短時間で決まる盤の大きさでもできるので、ピシピシと打ち続けて気づくと布団に潜り込んでAM3時なんてことはザラです。
囲碁をやってるとひどい人間になるんじゃないかなあ。
何かに愛着を持ちづらい人間になるんじゃないかなあ。
なんていうふわふわとした考えが浮いてきたのは、囲碁が少しずつ分かってきたあたりから。
囲碁をわからぬ人にもルールを簡単に説明しておくと。
囲碁っていうのは、
盤の目(線がクロスしているところ)に石を打っていくのだが、どれくらいじぶんの石で目を囲めたのかを競う陣取りゲーム。
盤に石が打たれると何もなければその石から4本の「生命線」が伸びる。
しかしこの生命線が敵の石が置かれることで全て切れると石は「死に」、取られることになる。
けれども、石同士をつなげることで生命線は増えて、相手に取られづらくなっていく。
だから、じぶんの陣地を確保するには
・相手の石を取って陣地を確保する。
・相手が攻めてきても取られないほどに石をつなげて強くして目を囲む。
これが囲碁。
で、囲碁をある程度打っていると最初段階で「あ、見捨てないといけない石もあるんだな」と気づいた。
全ての石を守ろうとしていると、大きな流れを見失って、相手に他の場所の陣地をがっぽり取られてしまう。
見捨てる。それが勝ちへの近道。
ただ、「見捨てることも大きな流れを制する上で大事」という話はなにも囲碁だけじゃあなくて。
将棋だってそうだし、きっとチェスだって、他の対戦型ボードゲームだってそうだろうと思う。
けど。
やっぱり将棋と違うよなぁって思うところ。
それは、
囲碁が「どの石も区別しない」ってこと。
そして区別しないから、ひとつひとつの石にそれほど個別の愛情みたいなもんがわかない。
将棋の場合
駒には名前と役割がある。
「歩」「桂馬」「角」「飛車」
ひとつひとつの駒が違う。そして働き方や役割も違う。
だから
「私この駒が好きでさー」
みたいなトークは将棋好きには欠かせないトーク。
ぼくだったら縦横無尽な飛車は好きだし、トリッキーな桂馬を活躍させるのも好き。
けど、囲碁は。
「私この石が好きでさー」
みたいなトークは囲碁好きでは交わされることはない。
「この中にある、ほらこれ、この奥底の一石だけはもう大好きなんだよね」
とかもう、囲碁好きを通り越してただの庭師である。
囲碁の石には個性がない。
一個一個が同じになっちゃう。
だから思い入れがない。
だから見捨てやすい。
「ここはいいや、捨てよう」と。
将棋みたいにこの駒は生かしたい、この駒好きだ、みたいな。
取られた!くそう!みたいな。
前向きに考えれば前に書いた「損切り」ってことなんだろうけどさあ。
なんか、だんだん勝つコツが分かってくるほどに、いとも簡単に石を見捨ててしまうじぶんが、世の中を渡り歩くコツみたいなのを身につけてスパスパ人に見切りつけていくみたいで
ちょっと石を打つ手がたまに怖くなるよね。
人生をかっぽしよう