食事を写真に撮る行為がイヤだ、とか、アリだ、とかそんな話はよくある。
ケータイで画像が撮れるようになってからだろう。
先日も美味しそうな食べ物を目の前に、女性らがカシャカシャと写真を撮ってた。
いま、ぼくがしたいのは、そういう話というよりも
人が写真を撮るのはなんでだろう?
ということ。
ねえ、見て見て〜
と人に見せるために撮る人もいると思うのだけど、
ぼくの例で言えば、人にほぼ見せないし、自分で見返したりもしない。
友だちの話を聞いても、そんなものだ。
撮る瞬間
その瞬間を切り取ることに意味があるんだろうと思う。人生を切りとる感覚。
どちらかと言うと
切り取ることそれ自体に意味があるように思う。
この瞬間は特別だ。
と、カラカラと引っ張っていったトイレットペーパーのような
流るる人生を切り取るかのごとく。
そうやって、人生の強弱をつけ、切り取り、重ねて、
自分の人生をコンパクトにしていく。
自分の人生を、デザインしていく。
色々あったけど、これが私の人生でした、と。
見せたい部分を、見せていく。
煙くさい道路のあの一歩を踏みだしていた私じゃなくて、
この見るからに素敵なスウィーツを目の前にしている私が、私の人生でした、と。
誰に見せるのか?
おそらく他の誰でもない、自分自身に、だろう。
いやまぁ、表立って意識していることにそんな大それた意識なんてないと思うけど、
奥底にはきっとそんな気持ちがあるんじゃないか。
楽しむべきことか、哀しむべきことかは分からないけれども
人間は長い長い人生をそうやって切り取りながら、歩いていくのだろう。
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