トーキョーには何もない
トーキョーは、何でもあるので、何もない。
とか言ってみる。
トーキョーに行ったとき、お土産を買おうとする。
けど、思う。
同じもの、地方からでも買えるよな。
ネット通販やってんじゃないのかな。
ひと昔前は、こうだった。
「東京に行けば、何でもある」
けど、今はそれが少しずつネットに取って代わられる。
ネットで注文すりゃ、買えるんじゃない?
発想が逆転する。
希少さがなくなったわけだ。
「何でもある」は「何にもない」
に変わっていく。
「東京」というまちの上に「トーキョー」というまちが重なっている。
それは「東京」ではない。トーキョー。
田舎のぼくからすると、トーキョーには、ここにないものが、何でもある場所というイメージで。
トーキョーは、東京ではなくて、ぼくの頭の中にあったんだろうと思って。
東京という場所にある必要はなかったんです。
そして、トーキョーは、ついにネット上にほぼ置き換えられている。
そうしたとき、「ない」ことが、豊かであることを、やっと知ったのです。
今この瞬間に欲しいものから。
今この瞬間にしかないものを求める。
東京に行ったとき、お土産に持ち帰れない景色を探すのも、そのせいだろうと思うのです。
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