どうしてFacebookは僕らを窮屈にするか【Facebookって何が楽しいんですか?】
Facebookから気持ちが離れてしまった。
そういうことを自分が思うことが果たしてあるんだろうかと、前は思っていた。
これを書いている2019年10月時点では、Facebookの投稿は一時期よりもグッと投稿数は減った。
頻繁に更新していたときは毎日何かしら投稿しなければおかしいというレベルにさえあって、投稿できていない自分は何か今日取りこぼしていたことがあるんじゃないか?自分は怠惰な人間なんじゃないか?とさえ思っていた。
それが今ではROM専だ。
ROM専
というのは、Read Only Memberの略で読むこと専門の人ってことだ。
昔は意味さえ知らなかった言葉が、今では自分のしっくり来る。
特に嫌なことがあったわけじゃない。
たまに見る「意識高い系がー」みたいなFacebook批判をぼくが持っているわけでもない。
ただ会社員になってフリーターのときと比べると1日の大部分が仕事のことになるから、日々投稿することがなくなり、露出できない時間が多くなった、ということだけだった。
私もFacebookをやめた。
という話を友人から先日聞いた。
もうアカウントも消した、とも。
お互い特にこの後の予定が決まっていない週末に、ぼくは洗濯機を回しながら、向こうはおそらく寝っ転がりながりながら電話をする。
どうして?と聞けば
「毎日何かしら『始めました!』って華々しいスタートが投稿されてるでしょ?それ見るたび、自分はどうなんだろう?って思ってしまって耐えられなくて」
とのことだった。
まぁたしかにそう言われればそうだ。
料理教室行き始めました!とか。
恋人ができました!とか。
転職しました!とか。
結婚しました!とか。
子供が生まれました!とか。
たしかにそうなんだ。
これはFacebookの楽しさではあると思う。
今彼らは何をしているのかということが、見えてくる。
料理ができなくてもいい。
恋人がいなくてもいい。
結婚しなくてもいい。
子供がいなくてもいい。
そういう正解がない時代だから、逆に他の人はどうしているんだろうと気になってしまうのかもしれない。
きっと、そこまでは考えてぼくは使っていないのだけど。
語ってくる彼ら彼女らに全然罪なんかなくて。
それは皮肉でもなんでもなく。
ただ、これはFacebookのような空間の良さではあるのだけど、「じゃあ君は?」「みんなはこうだ、あなたは?」と。「あなたはどうするの?」「ねえ?」と。こういう言葉がプレッシャーになってくる。
人によっては「私は私、あなたはあなた。おめでとう」という言葉で受け入れられるけれども、人によっては「だから何?どうせすぐダメになるんでしょ」と言葉を突っぱねる。
人と比較するな。
なんて勇気の出るような言葉があるけど、ぶっちゃけてしまえば比較で考えたがるのが人間なわけだから、比較するななんて、無理な話だ。
それでも。ぼくが知人に聞いたことは
自分だって日々ダメだなあって思って過ごしてないわけでしょ?と。
聞けば、そうだけどね。と返ってくる。
なんか昔もこんな話したよなあと思いながら。
こうやってぼくらはずっと自分の生き方とかライフスタイルが大丈夫なんだよね?と確認し合いながら生きてきたんだし、これからも生きていくのかなと思いながら。
そこからはFacebookの話とは少しずれて、最近休みって何してる?って話をした。
最近はダレた生活ばかりしていて、起きたと思えばYoutubeを見始めて、気づいたら寝てる、と知人は言った。
最近は平日から逃げるように土日に入って、気づけば日曜の朝を何となく迎える、と。
でも、おれらさ、会社員続けてるの、けっこう偉くね?
知人は大爆笑しながら言ったけど、その言葉が妙に腑におちた。
そう、何か大きな転機が始まったわけじゃない。
けど、毎日をたとえなんとなくでも、続けているのは、よく考えれば大したものだ。
だったら続けてる人を褒めてあげることも世の中必要だと思う。
もはやとっくに「始めた」時期を終えて、それを淡々と数ヶ月も数年も続けてる。それも、十分、立派なことだと思う。
Facebookは「始まったこと」を大きく賞賛する文化がある。
Facebookだけじゃなく、他のSNS、特にインスタなんかも思えばそうだと思う。
自分なりに頑張ったこと、ライフステージが変わったことをお互いに「いいね!」と言い合って「自分これでいいんだ!」と思えるとてもいい空間。
ただその一方で、続けている人が「自分このままでもいいんだ」と思えるようになればいいなとも思っている。
今日も仕事行ったんだね、いいねとか。
部屋から一歩も出ないで好きなことして過ごしたんだね、いいね、とか。
毎日生きてていいね、とか。
人生を、かっぽしよう。