紹介します。本47冊で僕の大学研究6年間を振り返る
前回こういう記事を載せたら、多くの反響をいただくことができました。
紹介します。厳選本51冊で僕の大学生活6年間を振り返る - 人生かっぽ —佐藤大地ブログ
タイトルが勘違いさせてしまったようで
「え、研究の本全然ないじゃん」と言われたのですが、
このブログの読者層を考えて、わざと載せませんでした。
で、やっぱりぼくが大学でどういう感じの本読んで考えてきたのか紹介するのもひとつだよなあと思ったので
読者の方がどれくらい興味を持ってくれるかわかりませんが、ぼくのメインストリームとして印象深かった本を紹介していきたいと思います。
今回ばかりは言い回しが多少難解になってしまうことをお許しください。
あ、ぼく自身のメインの研究テーマとしては、「リスク問題と討議デモクラシー」です。
前回とは違って厳選はしていません。
冊数とかそういう問題ではなく、自分が読んで、強く記憶に残っているもの(それは難解だったなあとかも含めて)を紹介して振り返っていきます。
なので、前回よか淡々と紹介していきます。
また今回は、
具体的なケースについて調べた書籍は載せていません。
例えば、「水俣病」「新潟空港事件」「長良川河口堰事件」、各種原発訴訟とその周辺情報の書籍や判例も漁りましたが、今回は主に根幹になる思想的な部分の書籍の紹介に絞りました。
翻訳版があるものはそちらを載せています。
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恥部ってどこからどこまでだ〜恥部の哲学@温泉〜
前回から続いている、温泉シリーズ。
(いや、シリーズ化する気持ちは毛頭ないのだけれど)
今日は、恥部について
温泉について、入ろうとしたならば、当然だけれども裸になる。すっぽんぽんである。
ぼくは結構恥ずかしがりなので、最初は恥部という恥部をタオルで隠す。
けど、他の人は、タオルを片手に持って、何も隠そうとせずに入っていく。
ぼくはそんな勇敢なことはできない。
ドアの向こうがどうなっているか分からないから。
ドアを開けると、そこにはちらほらと先客がいる。
湯船に浸かっている人たちもいれば、熱くなって湯船から出て、あられもない姿でいる人もある。
ぼくが恥部だと思っている部位は、真っ向からこちらに見えている。
それでもやはりタオルを取ることができず、湯船につかる前に、身体をきれいにする。
身体をきれいにし終わる頃には、周りを見て、自分もちょっとだけ恥部をちょっとだけ隠すようにして湯船のほうに向かう。
隠しきれているかは分からないのだけど、ポーズでも、隠す。
湯船にタオルは入れてはいけないので、仕方なく外す。
そうして、じっくりじっくり浸かる。
少しずつ少しずつ人が増えてくる。
ぼくの入り方は、じっくり浸かって汗をかき、それから水風呂に入るか水をかける。
これを3〜4セットくらいやっている。
で、一回目の温泉から出る頃には、
恥部という意識がほとんどなくなっている。
ほぼ隠すことはない。
水をしばらくの間かけて、湯船に戻ろうとしたとき驚く。
男子グループが3人ほどで入って来ていて、
彼らは湯船に浸からずに立っていて、恥部を隠すことさえしない。
恥ずかしくないのか……!
彼らを目の当たりにしながら、二度目の湯船に浸かる。
唇まで浸かって、あたりを見回しながら考える。
恥部ってなんだろう?
恥部ってどこからどこまでだろう?
まさにその部分が恥部なのだろうか?
いや、毛まで恥部なのだろうか?
いや、お尻が恥部の人もいるだろう。
女性はどうだ?
女性はぼくが思うに2つ隠すところがあると思うけど
女性同士ならどこが恥部なのだ?
恥部ってなんだろう。
恥部のゲシュタルト崩壊が起きてくる。
しかし、男子グループの勇敢なる立ち姿を見ていると
自分の気も楽になり、ついに後半には、ぼくも恥部を隠すことをやめていた。
恥部は、自分が決めることではない。
誰かが隠そうとしている様子を見て、それが自分の恥部を決めるのだろう。
純粋に自分が恥ずかしがったから恥部なわけではないのだろう。
帰り道、さっきの男子グループとたまたま外に出るタイミングが一緒になった。
不思議だ。
彼らとぼくはもはや恥部を見せているのに
今では服を着て隠しあっている。
このままぼくら四人しかいなかったら、ぼくらは服を着る必要がない。
ということは、ぼくらにとって恥部を決めているのは
ぼくら以外の誰かがいるからということになる。
その誰かが隠しているか、隠しているだろうから、ぼくらはその環境に入ると恥部を持つ。
身体的なパーツだけではなく、それ以外の思考の部分もそうだろう。
誰かが夢を隠すようになれば、それはぼくの恥部にもなる。
誰かが一生懸命さを隠せば、それがぼくの恥部になる。
恥部は、自分が決めることではない。
けれども、誰かが断固たる決意と行動で恥部をさらけ出し続ければ、世の中の恥部の範囲を変えられるかもしれない。
恥部。
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シェアする用の写真を撮る自分は、だいたい最初からできている
自分が感動したい台本は、事前にできている。
松島に、趣味の温泉に行ってきた。
いつもとは違うところを歩くので、いつもとは違う風景が見える。
日本三景・松島。
やっぱり美しいまちが続く。
ちょっと坂道を登って、振り返る。
すると、そこには海がある。
うおお、すげえ。
写真に撮る。
気持ちも晴れやかになる。
子供が自分に笑いかけてきて「おう、元気?」と心なしか瞳知らない自分がいる。
なんて素敵なんだ、松島。
と、そう思って写真を撮っていたときに、
ひねくれた自分が出る。
「おまえ、自分がそう見たいからそう見えてるだけじゃね?」
駅を出た時から、きっとお前は自分が見たい「ザ・松島像」を作り出して
きっと、友達にシェアするための綺麗なストーリーが出来上がっていて
「ほら〜こぉんなに綺麗な風景が撮れたよ」
とか後でシェアする用に撮っているだけだ。
そういう姿が「見える」んじゃなくて
そういう姿を「見ている」だけだろう。
最初から持っていた偏見を、自分の体験で完成させるために、
シャッターを切っていただけだろう。
きっと土地だけじゃなくて、人も、そうで。
「きっとこの人こんなんだろうな」と思ったら
その偏見を完成させるために
「やっぱりこういうこと言われた」
「やっぱこいつ馬鹿だった」
という部分の体験しか見ないと決め込んでいる。
そして「そうであれ」と圧力や暴力さえ加え始めていくんじゃないかなと。
いや知らず知らず加えてるんだろうと。
感動する台本だけではなく、
やっぱりあの人を嫌いになる台本も、
だいたいは最初からできているような気がする。
その予定通りの未来をつくることで、思い通りが、安心感をつくる。
だから、それを全て悪いとは言いたくない。
けど
そういうことばっかりしてると
いつか見てない部分から反撃を受けるんじゃないかと、思った。
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