母と子のアーモンドキャラメルときどきメメント モリ
母と、話す。
母の同級生が亡くなったという。
「なんでもできるみんなが憧れる人だったんだよねー」
特に思い入れがあるわけでもなく、過ぎていくひとつの出来事のように、母が語る背中を見る。
「そっか、そうやって過ぎてくんだね」
ぼくは原稿を書きながら、母はアーモンドをキャラメルとこんがり焼いた匂いのせいか、穏やかに。
昨年あたりから、何となくだけど、思っていたことが、はっきりと言葉になっていた。
母が、ぼくの2倍の年である時点を超えた。
昨年、母は52で、ぼくは26だった。
a=母の歳、b=ぼくの歳とすると
a-b=26
a=2b
を満たすa,bはひとつしかない。
一生で、母親が自分の2倍の年になることは一度しかない。
親が自分を生んでくれたとき。
母に、もう一回り先の自分を、見る瞬間。
それを、超えてきた。
折り返し地点だと感じるようになった。
「死」という言葉で語ると、仰々しく物騒になるのだけれど
それでもぼくの中にひしひしと感じるようになったのは
間違いなくそういう類のもので。
「あたしもトシとったでしょ。けど、頭は高校生から何も変わってないから」
確かに頭の中なんてそうそう変わっちゃいない。
けど、少しずつ時が進んでいることを感じてるわけで。
ここ数年で、下手なドラマのような遊びものにはできない、リアルな死を目の前にしてきたので
余計に自分の人生の終わりを意識するようになった。
自分にも終わりがあるんだろう。
どんな風に、終えるんだろう。
けど、ちょっとだけそわそわしてきた。
メメント モリ
「こっから先は、選び省く人生なんだろうね」
母の背中に言う。
これまで、人生に詰め込みたいものは、とにかく詰め込んできた。
この先何があるかわからない。
何が楽しいことになるかわからない。
だから、まるで拾ったビー玉や木の棒すら
リュックサックに詰め込むような時間を過ごしてきた。
けど、折り返す。
こっからは、全部は持っていけないし、
本当に必要なものをひとつひとつ、
深く愛着を持っていくことを楽しむ季節が始まる。
ひとつ、ひとつと一度見返してみて、
向かう先を一度決め、名残惜しいけどその場に置いていくことになる。
それは、悲しいことばかりではなくて、
静かで柔らかい道を踏みしめていく喜びみたいなものになるんだろうなあ。
アーモンドとキャラメルの焼き菓子が、この上なく美味くて、食いすぎた。
そろそろちょっと遠慮できるようにしたいです。
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