知人の 孤独死 を通して思うこと
彼がひっそりと自分の部屋で死んでいたと、知人から聞いたのは、少し前のことだった。
原因は脳卒中だったか、脳いっ血だったか、脳梗塞だか、よくわからない。とりあえず脳なんちゃらみたいなので亡くなったということだった。
詳しいことはわからないけど、亡くなってから2日後くらいに発見されたということだった。
一人暮らしで、正規社員ではなく短期の仕事を不定期にしてしたから、連絡が周りから来ずに気づかれなかったんだろうと思う。
発見者も友人とかではなかったそうだ。
「孤り(ひとり)」で「死ぬ」ということに強く思いをはせるようになったのはこれからだと思う。
誰かの遺体を発見した時の対応と覚悟しておくこと
withoutdisorder.hateblo.jp
この記事の中では、ご老人の死の瞬間に偶然立会い救急車を呼び、家族に感謝される姿がリアリティをもって語られてる。
孤独死、
聞くと老人を想像しがちだけども
若い人たちの問題でもある。
老人ならば、失礼な言い方になるかもしれないけど「時が来たのね」で済むこともある。
けど、若い人だとこうはいかない。
遺される人が多いからだ。
「死に方」は、「遺され方」。
死生観についてはいろんな見方がある。
ぼくは現世主義なので「人間死んだら終わりだ」という前提に立っている。
だから、どんな死に方をしたとて、本人にとってはどうでもいいと思うし、本人の勝手だと思う。
けど、遺された方は違う。
どう死んだかという死に方は、遺された方に間違いなく影響してくる。
我が子や我が親が、孤独の中で死んで、さらにはしばらく放置されていたとしたなら、「かわいそうに。彼、彼女の行き方はなんだったんだろう」と思うかもしれない。
それが生前にはどんなに豊かな人生があろうと。
死ぬその一瞬までは、死はその人自身のものなのに、その先は「どんな死に方をしたか」「その悲しみをどう乗り越えるのか」という遺された人の宿題に、勝手に与えられてく。
自己責任じゃないわけですよね。死に方は。
ぼくはできれば葬式は笑って囲まれていたいし、「悔いはねぇよなここまでやったら」とみんなに言われたいし、「明日からがんばるか」と思われたい。
死んだ後のことなんてきっとぼくは知りえないけれど、「ぼくの人生、全部楽しくしたい」というぼくの人生哲学が最後にきらりと映えるのが、死に方だと思ってる。
ぼくが見た葬式の中に、ある事件に巻き込まれ亡くなったので、親族だけで隠れるように行われていたものがあったけど、ああいうのを見ると人生なんだったんだろう、生きてくってなんだろうと思う。
ぼくの死に方一つとっても、生きている人間たちの生き方の考えは変わる。
ぼくもそうやっていろんなことを考えてきて、変わってきた
「生きる」ということは、「生き遺される」ということなんだろう。
ぼくはコミュニティをつくろうと思っているのは、そういうことも強く影響してきた。
死に方を考えるためにコミュニティを作るなどと大それたものでもないけれど、この一人ひとりに切り離されて暮らす世の中で、それでも死に方を形づくる大きな部分が人間関係であるのだから、つながりを作り出していくことは、財産を創り出していくことだと思ってる。
しばらく前に、ニコ生中継によってひとりの老人が救われた。
これは人命が救われたパターン。
ニコ生リスナー人命救助の大手柄、生放送で脳梗塞の症状を察知 | ニコニコニュース
こういうのもそういう財産のひとつ。
もしぼくの孤独死した知人の周りにも、こういう関係があったなら、たとえその命が助からないとしても、遺族は「彼の人生がどんなに素晴らしかったか」という彼の人生の意義と、「彼の人生がどんなことを私たちに遺したか」という彼に遺された意義を感じることができたんじゃないかな。