「意識高い系」であることを恥ずかしがっている方々へ
ぼくには、はじめて会った人に「大地さんは意識が高い学生ってので有名でしたよ」と言われてむっとした経験がある。
その意味は、かなりネガティブっていうよりも、どこか指をさして笑うような感覚に似ている。
ぼくも大学生の頃はよく言われたし、じぶんの知らないところで言われていたということをよく聞いた。SNSってこわいね。
最近、安保法案で話題になったSEALDs(シールズ)叩きとか、「どうして解散するんですか?」の小4偽装サイト問題でも同じような匂いを一部で感じてて。
で、あまりにも言われるからこう言うようになって。
「ぼくは意識が高くはありません」
同じようにして、ほかの人たちがその看板を取ってもらうようにいっているのも聞いたことがある。
「私、意識高い系じゃないので」
「うちは意識高い系じゃありません」
今思う。
というか、やっぱり思う。
意識高いことを恥ずかしがるなんて、おかしかった。
そもそも意識が高いとは?
「説得」とは「正しさのゴリ押し」ではない。と僕が友人に気づかされたある日のこと
もういい、君らには分かんない話だったな
と、心の中では思っていた。
彼らは何も言わない。
「説得」という言葉がある。
その言葉をぼくは、こう思っていた。
じぶんがやるべきこと、みんながやるべきことを、誰がなんと言おうと「強く」貫いて、飲んでもらうことだ。
「正しさ」と「得」ということの区別。
人を「説得する」ことに必要なことは「正しさ」ではなかった。
やっぱり僕は言いたい「大学生ならブログ書こう」と。僕らが大学を捨てなくてもいいように
「ブログ書こうぜ」とぼくは大学生にずっと言い続けてきました。
ぼく自身も、大学からブログを書き始めて、その威力に気づいたひとりです。
どうしてぼくが大学に通った上で「ブログを書こう」と言うのか。
それは大学生であるぼくが、かつて「ズレている環境」にいると気づいたから。
「世の中に提供できる価値」と「やりたいこと」のズレ。