人生は「野菜が入りまくったジュース」のようだと思った24時間
24時間が終わってみると不思議と眠くはないことに気づいた。
それでも少しばかりの疲労感が体の中をむずむずと流れ、湯船につかりながら、ここ24時間のことを考えた。
ぼくが24時間ひとつの場所にいて、来た人と語り続けるという場を仲間と作ってみた。
社会人から大学生から果ては中学生も来てくれて、こんなにもあやふやでイメージがつかない場に60名近い人数が集まってくれました。
場を作るというのは、そこにいる人たちの化学反応によるところがものすごいある。
主催する人間が中心になるのではなくて、いろんな場所でいろんな人同士が勝手に話して、勝手につながって、勝手に盛り上がって、勝手に次の約束をしたりする。
これは一方的に誰かが話したり教えたりする場所ではそんなに起きないこと。
だから逆に、どれだけ「こんな場所をつくりたい」と思っても、参加者によってぜんぜん違うものになることも、予想をはるかに超える結果になることもある。
作り手側ができることは、ミキサーでつくるジュースで言うところの、ミキサーとどれくらいミキサーをかけるかくらいのもので、「こんなふうなジュースをつくりたいんです!」と呼びかけたら、あとはそれぞれが問答無用でミキサーの中に飛び込んでくるので、飛び込んできた野菜や調味料をある程度混ぜたら、あとはどんな調味料や野菜同士でどんな味付けをしあうかというミラクルは、中のものたちに任せられる。
だからこそ感動もひとしおで、さらには悩むことや考えることも多く、結果としてもっともっとやりたいと思う。
もともとは2年前ほどまでは数年間毎週日曜日やっていた場ではあったので、ある程度の固定ファンが来てくれるかなとか思っていたのだけど、なにぶん2年ぶりということもあり
そして今回は24時間やるということもあり、予想できないことが多かった。
湯船につかりながら、
終わった場のワンシーンワンシーンをふり返って、
あんな良い瞬間ができたなあ。あのときはあんなことがもっとできたらなあ。あの人がああいうことをやらなかったらきっとあんなに楽しくはなってなかったなあ。
とか、ひとつひとつの感動を噛み締めながら、ひとつひとつの原因と結果を数え上げて確かめていた。
そうしてどんどん、そもそもやるきっかけがどうだとか、数年間やった場を閉じたときはどうだったとか、2年前にやっていた場はどうだったとか、さかのぼりにさかのぼっていた。
これがなかったら、こんなことにはなってなかっただろう。
ということは、数え出すと数え切れない。
「歴史にIF(もしも)はない」ということをよく言う。
それは歴史という大きな話だけではなくて、自分という1人の人間でも同じで。
もしもを考え出すと、過去はどんどん可能性を広げ始め、ぐねぐねと曲がり、原型をとどめなくなっていく。
そうして過去があやふやになると、現実の「今ここ」という足場がぐらぐらゆれ始めて、破壊されて、じぶん何なんだろうという気持ちだけが残る。
それでも、湯船に浸かりながらぼくがぼくの「IF(もしも)」を考えながら思ったことは、そんな虚しいもんじゃなかった。
それはむしろおそろしいほど頼りがいのある力でぼくの人生の今までの歴史をはっきりとさせて、現在のぼくの背中を押してくれた。
「自信持て、すばらしい、どんと行け」
と。
この違いはなんだろうな、と、思う。
「ぼくのIF(もしも)」と「歴史のIF(もしも)」の違い。
で、思い浮かんだのはこういうこと。
「もしもあったらこうなっていた」
「もしもなかったらこうはならなかった」
という違いがそこにはあって、
今回ぼくが実感したのは
「もしもこれがなかったらこうならなかった」
ということ。
「もしもこの人がこう言ってくれたなかったらやっていなかっただろうな」
「もしもこの人が来てくれなかったらこうはならなかっただろう」
「もしもこの人がこれをしてくれなかったら…」
「もしもこの人がこんな話をしなかったら…」
「もしも」「なかったら」「こうなっていなかった」
そんなことばかりが、ぶくぶくと浮かんでくる。
こういう「もしも」がぼくらのミキサーの中に入ってきてくれて、スイッチをいれたときに、それぞれがそれぞれに好きなように関わってくれて、ジュースになる。
そういう偶然みたいなことが混ざり合ったのがぼくらの過去で、それがたまってきたのが人生。
それが今回は24時間に濃縮還元したけど、人生という長いスパンで見ても、きっと同じだろうなと思った。
人生は、野菜が入りまくったジュースみたいだ。
いや、野菜以外も入れるかもしれないけど。
え…っていうものを入れるかもしれないけど。
そのどれひとつを抜いても、ジュースは成り立たない。
そして過ぎ去ってしまったのだから、過去に足し算もできないし、引き算もできないということを知る。
ウマかろうがマズかろうがつくってしまったのだから、美味しく飲むしかない。
人生っていう野菜ジュースは今この瞬間も作られていて、ミラクルだな。
そういうことを思った、24時間でした。
ねえ。あなたから人が離れていくのは、そうやって一人で次に次に行くからだよ
先日のイベントで使った店をもう一度訪れた。
今度はひとりの客として。
一度イベントで使ったお店は、もう一度訪れるようにしている。
今回はiPad Airを忘れるという理由もあるけれど(iPad Airがない期間、ぼくは囲碁ができなくて発狂しそうだった。老婆から服をはぎとって夜の闇に逃げていくくらいの勢いだった)
とろとろチーズのナポリタンとクランベリージュースをオーダー。
本当は一杯やりたかったけど、そのあと仕事があったからやめる。
手際よくお兄さんが作って、その間に「このまえはイベントありがとうございました」なんてちょっかいを出す。「いやぁ高校生大人びてますねぇ」なんて返ってくる。
テキパキと出てきたナポリタンが、チーズがとろっとろで「ホンマにとろっとろチーズやないかい」とか心の中で喜びのツッコミを入れながら食べる。
祭りは日常を崩し、もう一度つくらせ始める。
ぼくのイベントが成功しようが、失敗しようが、そのお店としてはぼくの関わったイベントがきっかけで日常が少し崩れたわけで、イベントが終わった日々からはまた日常を取り戻す日々を始める。
言わば水槽のなかをぐるぐるとかき混ぜたあとに再びもとの姿に戻ろうとするような日々。
お礼参り
なんていう言い方は大げさだけど、再び「日常」という砂つぶを水槽の中に積もらせる中、ぼくも少しでも混ざれたらうれしいなと思って。
そのお手伝いが客のひとりとしてできたらいいなと思って。
ぼくは再びそういう場所を訪れるようになった。
人がひとり、またひとりと、面白いようにじぶんのもとから去って行ってしまった時期がある。
本人は何ひとつ面白いことなんてなかったけれども。
ずっと突っ走って、ずっと面白いことやって、ずっとデカいことやれば、みんなが憧れをもって、ぼくと一緒に走ってくれると思っていた。面白がってそばにいてくれると思っていた。
けど、実際はさらさらーっと手から砂つぶがこぼれてった。
相談が苦手だったぼくがまるで切腹でもするかのような気持ちで、そのことを友人に相談した。
だからたぶん、何を言ってるんだこいつは、みたいな気持ちの表現をして相談したと思う。
けれど友人は全てをわかったようにうなづいて、
「大地さんはね。先へ先へって行っちゃう。だからだれも付いていけなくて、そのうち追いかけるのを諦めて離れて行っちゃうんだよ」
その言葉は、そのときなんとなく腑に落ちなくて、というか、なんとなく受け入れづらくって、ふーんとそっぽを向いたような、ふぅんとか受け入れたようなそんな感じで受け取った。
「やりたいことをやりたいように勝手気ままにやっていって、こちらの気持ちをおかまいなしにいなくなる」
知人に言われた言葉がそんなふうに少しお叱り気味にじぶんの頭の中にふりかかってきたのはいつだったか覚えていない。
けど、あのときの知人の言葉がそういう意味だったのだなぁと思うと、どれだけやさしく友人が教え諭してくれたのかと気づいてありがたかった。
思えばぼくは勝手気ままに誰かを巻き込んで、用事が済めば音沙汰なしで、また用事があれば都合よく言い寄るみたいなことが多かった。
イベントで使った場所もまるで他人のように近づかないことがほとんどだった。
平穏な日常を「楽しさ」という正義で荒らされ、それが終わった後は知ったこっちゃない。それをやられたほうはたまったもんじゃない。
もう二度と付き合うかと思う。
「祭り」のあとは、「日常」が続いていく。日々のほとんどは「日常」で出来上がる。
かきまぜたら、落ち着かないといけない。そうやって日常ができあがっていく。
「次のイベントは決まってるんですか?」
と皿を洗いながらスタッフさんが聞いてくる。
「はい、次は小規模のを2月にやって、そこから3月に今回よりももう一段デカいやつをやります」
と返す。
それなら、とこんな場所はどうですか?こんな場所は?と意図せずに次のおもろいこと探しの花が咲いてく。
「また来ますね」
と言って店を出る。
できることならもうちょっとゆっくりしたかった。そしてできることならとろとろチーズのナポリタンのハーフサイズではなくてレギュラーサイズを食べたかった。
また来よう。
こんにちは、と言って入れる店がまた増えてうれしい。
人生をかっぽしよう