辛さも受け入れてやさしく生きてきた場所 多賀城
その辛さの経験とは裏腹に、小高い丘と、空がやさしくある場所でした。
まちの建物は、どこを見ても歴史的な建物のように見えて、
まるでずっとそこには平城京時代に建てられた家々が残っているようでした。
駅名の「国府多賀城」にあるように、この場所には
政治の中心である、「国府」がつくられ、
平城京時代に蝦夷(えみし:東北の人々を示すことば)との境界線を示し、のちには支配の中心になる多賀城という城がつくられていました。
最近は東北の歴史に興味を持ち、東北ってそもそもどんな歴史を持っていたんだろう、もうちょっと知りたいなと思っていました。
東北のストーリーも読んでいます。
宮城県多賀城は、平城京時代には蝦夷と対立する最も東に位置する場所として存在しました。
いつの時代にもありますが、
ある地域の人々が他の未開の地へと対立もないのに入っていったり、侵入していくのは、資源のため。
この東北の地域もおなじでした。
平城京時代
大和政権は、東北で金が取れると知ると、主に仏像の材料として金を求めて東北への支配を進めていきました。
その話を聞いたとき、何となくやるせなくなりました。
人を幸せにするための仏像は、誰かを支配することでつくられていたんだなあと。
そう考えると、ぼくらの時代もおなじなんですよね。
たくさんの辛さにさらされてきた場所
多賀城近くでは、歴史的な戦いがたびたび起こってきました。
平城京時代には、朝廷と蝦夷の争いが何度もくりかえされ、
征夷大将軍 阿倍仲麻呂と蝦夷のリーダー アテルイの戦いが行われたり、
平安京時代には、朝廷側の源氏と陸奥国(東北)側の安倍氏による前九年の役の戦いがおこなれて。
辛さをもたらしたのは人の戦いだけじゃなくて。
平安京が都のとき、869年には、現代にも通じる大きな危機も起きました。
3.11に近い規模で、M8.5〜M8.6レベルという「貞観の大震災」も起きています。
天は光り、地は割れ、川は逆流し、津波が起き、まちが飲まれたとあります。
このときも、復興はこの多賀城を中心としてなされたとあります。
ちなみに、貞観の大震災の一ヶ月後には復興策の勅令が朝廷からあったというから、今から1,000年以上も前の話なのに、そのスピードに驚きます。
続いてきた生活
さまざまなことが起こって、そして受け入れてきた地域、
それが東北であって、古代、その中心にあったのが多賀城でした。
民間信仰の荒脛巾(アラハバキ)神社は
民間信仰の神様、アラハバキ(アラバキ)が祀られる神社です。
その神社がいつ作られたのかは分かりませんが、
戦いがあっても、従わされても、それはきっと静かに静かに、その地に住む人たちに愛されて日々の生活の中にいたんだろうとぼくは思います。
今でも、民家の中にあるようなかたちであったので、ちょっとビビりました。
小高い丘と、そして見渡す限り一面の空、そしてそこから見えるまちの姿を見ていると、
なにやら、
どんなことがあってもそれを受け入れ、
日々豊かに生きている人が見えてくるようでした。
かつては争い、従える、
そういう政治と軍事の中心地であった多賀城跡の静けさのなかで
松尾芭蕉もここに来たって言うんで。一句。
争いの 無き世の跡で 鶯の 鳴き声響きて ひとり立つ身よ
また、来よう。
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