謝ることは、無力だし、とてもむずかしいし
空を見上げると、
むこうには秋になりかけのちぎれた雲があって、
むこうには夏の残りの立派な入道雲がある。
今日は終戦記念日。
正確に言えば、ポツダム宣言を8/14に受託して、
昭和天皇が「戦争やめます」ということを放送した日。
人生を生きてくるほどに、戦争の意味というのが変わってきて。
昔は戦争ってのは悪いことなのよってまるまる覚えていたのだけど
いろんなことを知っていくほどに、
どうして悪かったのか、本当に悪かったのか、それでも悪かったのか
そういうことを考えるようになるのです。
きっと来年の終戦記念日も、いまとはまた違った「戦争」を考える日になるんだろうと思います。
なんだかなあと思うこともあります。
1945年に第二次世界大戦が終わり、今年で70年。
だからこうやって首相が代表して「戦争をふりかえって、こう思ってますよ」という談話を発表する。
ことばの難しさと、ややこしさと、強さを、感じるんです。
ぼくなんかはこの安保について動こうとしているときに
侵略とか戦争とか、武力について、どう考えているんだろうと
発言からできるかぎり読み取ろうと注目していました。
でもどっかでぶっちゃけた話
談話ってなんなの?ただの話でどうしてここまでさわいでるの?
っていうひともいるわけで、
どっかでじぶんもそういう気持ちを捨てきれないでいるわけで、
ことばでなんとか言うだけではなんともなんないでしょう
って思うじぶんもいるんです。
これ何かににてるなあと思っていたら
よく企業とかで不祥事起こしたりしていて
テレビやらインターネットやらで謝罪している文面に対して
「なんなのこの文面www」
「逆に幼稚さ露呈してんじゃん」
「日本語力おかしいw」
そういうことばが飛び交っているところ。
いや、悪いことをしたのは、そりゃあっちなんだけど
なんか被害を受けてもいないひとがそれを今宵のストレス解消のはけ口にしている感じ。
SNSとか見ていると、今回の談話でも
やっぱりこういうことばもけっこうな数あって
なんとなく疲れるのです。
謝罪ってむずかしい。
ことばを使って申し訳なさを示すってむずかしい。
「ごめんね」
って言ってるふりだけをしたり
本心から言ってるのに「そんなの謝ってない」って彼女がいたり
「どうしてアイツに謝ってんだよ」ってキレる友達がいたり
いろんなひとのことを考えて謝るってむずかしい。
そして
それよりも、なによりも、もっと考えていきたいこと。
「インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史」
「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たち」
「経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去」
っていったいなんのことなのか。
これらの意味を理解して考えられないぼくらがいるってこと。
あいも変わらず学校の授業では
教科書に書いてあるのに年間カリキュラム上授業をしないってことになっている。
戦後史は、授業では扱わない、けどセンター試験にはやたら出る、「めんどくさい知識」となってしまってる。
そして、「やっているのが当然」という風潮だから
「ぶっちゃけ自分勉強してなかったので全然知りません」とか言えない始末。
で、そういうひとから無言になっていく。
知っているひとがよくよく考えて主張して、
いまいち分からないけど言い出せないひとが、それをスルーする社会。
こういう世代を量産して、「また戦争を起こさない」なんてほんとうに言えるのか、ぼくには疑問。
ぼくは、ほんとうに謝るっていうのは行動に示すことだと思うことだから
まずは教育などを使って知っていくことだと思うし
知ったことを少しでも多くのひとに興味を持ってもらって
考えてもらえるようにしたいなって思う。
「やっています」っていうポーズは、やめたい。
義務とかじゃなくて、「世界は平和になる」っていうこの空虚に見える可能性を、
この27歳まで生きたいまだからこそ、なんとなく実現するか試してみたくて、やってみたいのです。
人生をかっぽしよう
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