「こんな勉強 役に立たないですよ」と子どもは言う。ぼくはこう返す。
「こんな化学式なんて勉強したって一生使いませんよ」
理科を勉強していたときに、家庭教師先の生徒が言う。
こういう質問をして、ともすると勉強からの逃走をする生徒はけっこういる。
「うん、そうだね」とぼくは返す。
サインコサインタンジェントとカレー
サイン、コサイン、タンジェントは使いものにならないのか。
知事は、全国学力テストの結果を受け、「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」と述べ、「社会の事象とか、植物の花とか草の名前を教えたほうが良い」と主張した。
それに対して
この記事のなかであった、このことば。
勉強をなぜするのか親に訊いたときに、コップを指して「国語なら『透明なコップに入った濁ったお茶』、算数なら『200mlのコップに半分以下残っているお茶』、社会なら『中国産のコップに入った静岡産のお茶』と色々な視点が持てる。多様な視点や価値観は心を自由にする」というようなことを返され
— レ点 (@8jouhan_ns) 2015, 8月 15
これ、まさしくって感じだとぼくは思っていて。
いろんな視点を持てるということで
いろんな視点をもっておくことは、世界をいろんな見方できるようになるということでもあるんですね。
たとえば、今日という1日が立秋なのであれば
「雲が積雲から巻積雲などのちぎれた雲に変わっていくなあ」とか
「今日から気温がどんどん下がっていくなあ」とか
「少しずつ秋の味覚が始まるなあ」とか
そういう見方ができる。
たとえばカレーを食べているときに
「ジャガイモってのはジャカルタから持ち込まれたからそう呼ばれていて」とか
「カレーの黄色を出すターメリックに含まれているクルクミンにはいやな記憶を消す効果がある」とか
「ゴールデンカレー辛口:ジャワ辛口:バーモント甘口=6:6:2が美味しい比率だよね」とか
そういう見方ができる。
こういう見方ができると、
「じゃあ明日はあったかい格好していこう」とか
「じゃあ雲を見てみよう」とか
「じゃあ嫌なことあったらカレー食べよう」とか
「じゃあ今度一緒にその比率でカレー作ってみよう」とか
そういうこともできる。
生き方の幅が広がる。
別になければないで、損した感じはしない。
けど、あったら、きっと豊かになる。
『比率』って何のための勉強すか?
ただ、知事の言ったこのことば
知事は、全国学力テストの結果を受け、「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」と述べ、「社会の事象とか、植物の花とか草の名前を教えたほうが良い」と主張した。
これも全てを聞いたわけではないので、推測の域を出ないんですが
たぶん、言いたかったことは
「あ、これは世の中のこういうときに使われているのね」
とわかることを生徒に教えようということなんじゃないかと。
事実、いまの教育の大部分が、社会とつながっていることを教えているはずなのに
社会とのつながりが失われて生徒たちの頭に入っている。
知識は世の中を見るための豊かさを与えるものではなく、
単なるストレスやらアレルギーのようなものとして入ってくるので
頭が強烈にそれを中に入れようとはしないのです。
「アウストラロピテクス」とか「鎌倉幕府」をやる前に、「どうして日本はそんなに平和主義になったのか」という歴史から始めた方がきっとおもしろい。
じぶんの知らない猿の歴史聞き続けるほど苦痛な時間もないよ
— 佐藤大地 (@daichisato88) 2015, 8月 28
今回の知事の話で大切なことって、けっきょくのところそこで。
どれもこれも人生を豊かにすること、さらには生活で大事になってくることを教えているはずなのに
一体にしてそれがどうして大事か、どれだけ大事か、
ということがイメージできないうちに頭に入れられてしまうこと。
この前、生徒に「何勉強してんの?」と質問したら
「比率です」と言ったので
「おっ比率使って生活のどういうこと考えたの?」うれしくなって聞くと
「いや、3:3=1:1とか」
という、たんなる数式の話になってしまっているのが悲しかったのです。
それで「きみはね、それおいしいカルピスの作り方習ってんだよ」と伝えると
「は?」となる。
「カルピスって原液だと甘いから薄めないといけないじゃん。
で、いったいにしてどれくらい薄めればおいしいのかということを知りたいよね。
そのときに使うのが『比率』だよね。
これでカルピスがどんな量でも必要な水の量が分かる」
なるほど、と生徒がうなってくれる。
そこから二人で、iPadでカルピスと水の黄金比率を調べる。
ほんとは実際作れると良いのだけど。
「化学式メンドくさい。こんなの使うことないですよ」
教えている生徒にそう言われるとぼくもぶっちゃけ使ったことないんで
「そうだね、いまんところぼくも使ったことない」
と正直に伝えます。
だって使ったことないし。
ただ、「けどね」と続けます。
「使うことがないんじゃなくて、使わない人生をじぶんで選んでいるだけだと思うんだよね。ぼくらは。
人によっては、一生日本国憲法なんて意識しないで生きていく人もいるから。
人によっては助詞とか副詞とか使わないし、英語すら使わないでも生きていける。
ただ、それは結局使い物にならないじゃんっていうよりも、使わない道を選んでるんだよね。
ぼくも化学式使ったことないけど、使えたら、もっといろんなもの見えて楽しいんだと思う。毎日が」
べつに仕事だから言っているわけではなく。
実際に試してきづいたこと。
こうやってブログを書きながらも気づいたこと。
使い物にならないガラクタなんかではない。
何に使うかよく分からないから、じぶんでポイッて捨てちゃうだけだ。
教えられたときに、イメージができないから「なんか面白そう」って思えないだけだ。
そうやって、知らず知らず人生の面白さの余白を削ってしまっている。
「そんなもんすかね」
生徒がいまいちよく分からない顔で返事する。
「たぶんね」
ものっすごい利益になるとか、そういうことはよくわからないけども。
人生を、かっぽしよう
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