なぜ「上手だね」と褒められると僕はすごいショックを受けるのか
「文章上手だね」「話し方上手だね」
って言われると、ありがたい反面、
ぼくはとてもショックです。
なぜかと言うと
それは感動させることができなかったから。
「上手だね」と「感動した」
ぼくはこうやってブログを書いていたり
ワークショップを開かせてもらったり
いろんなところでプレゼンさせてもらったり
という機会があるのですけど
そのときに、真っ先に言われるとショックなのが
「文章上手だね」
「話聞くの上手だね」
「しゃべり上手だね」
といった言葉たち。
いや、もちろん
言ってもらえたことはある程度の評価なので
嬉しくないわけではないですし
言ってくれた人を悪く言おうなんてことでもないのですが
「自分の評価されたいところで評価されなかった」
という力不足のところで、ショックなんです。
たまに、音程外しているのに心にグッとくる歌がある。
逆に音程は外していないのに表情変えないで聞き流す歌もある。
たとえば
同じ歌を聴いたときでも
「歌上手だね」
と言うときと
「この歌に感動した」
って言うときがあるんですけど
この二つの褒め言葉は全然違う。
「◯◯が上手だね」
と言われるとき褒められているのは、
自分の表現するための「技量」や「技」という
言うならば「手段」です。
「感動」という物差しこそ、作り手には大事
「◯◯上手だね」という褒め言葉を
料理で例えるなら
食べた料理が「美味しい」と褒められずに
「千切り上手だね」「炒め方が絶妙」「砂糖の加減が最高」
という「調理法」に対しての褒め方ということ。
作り手としたら
変な屁理屈コメント抜きに
「美味しい!」が一番嬉しいし、それこそが評価。
別の例で言うならiPhone。
使っている人に
「これのスペックがどうこう、コアチップがどうこう」とか、
そこは本当に伝えたいところじゃなくて。
本当に伝えたいところや評価されたいところは
「使ってみな。よく分かんねえけど、すげえだろ? 面白いだろ?」
っていう技術力抜きのところ。
「面白い!」が一番嬉しいし、それこそが評価。
大事なことは
自分が作り出したもの、表現したいものが
きちんと感動させられているかどうかということ。
作り手に必要なものさしは「感動」だけでもいい。
なのに
それを支える「手段」のほうを
「上手だね」と褒められるってことは、
感動させられていないということで、
それはぼくにとっては不合格なのです。
「上手だね」は「感動した」の後に気づいてもらえばいい
Original iPhone + iPhone 3G + iPhone 4 / Yutaka Tsutano
「能ある鷹は爪を隠す」
という言葉は、そういう意味だと思うのです。
自分としては食べてもらう人に
「美味しい」と思ってもらえる料理を出したいわけであって
それ以外の千切りとか炒め方とか砂糖のバランスは、
それを支えるための、どっちかと言うと見えなくていい部分だったりする。
だから、
「ほれほれ上手だろ、こんなこともできるよ」
なんて技量を見せびらかすことなく
「これよくわかんないけど感動するなあ」
と思って後々よく調べみると
そこかしこに匠(たくみ)の技術が施されている。
「うおお、よく見てみるとこんなとこまで気遣いされてる!」
みたいな。
さっきのiPhoneの例で言うと
初期iPhoneのイヤホンジャックの中の色って
黒iPhoneなら黒
白iPhoneなら白
だってことはあまり知られていない。
(今はどうかわかりません)
けど、そんなこと関係なしに
まずは全体を見て「うわあ、キレイだなあ」と思ってもらう。
で、後々よく見てみるとそういう技術に気づいて、
「だからキレイなんだ」って技術にびっくりする。
そういう流れで良いと思うのです。
*
自分の表現を味わう人は、
「感動」という物差しか持たなくていい。
そしてぼくはそれで測られたい。
そこに説明とか技量とか論理とか、
そういうものは見せたり見えたりする必要はない、と。
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