人を許せるようになるのは、マズいコーヒーを飲めるようになることと似ている
「まずっ!」と思わず声が出ました。
インスタントコーヒーを買うのを失敗したんです。ひさしぶりに。
僕の研究や執筆やら企画作りやらの合間のちょっとした楽しみであるコーヒー。
カップにさらさらとインスタントコーヒーを落として
ポットからお湯を注ぐ。
湯気と一緒にコーヒーの良い香りがリラックスをさせて自分をもうひと頑張りへと導いてくれる。
はずなのに。
今回はマズいものを失敗して買ってしまいました。
しかも大量に捨てるにもいかないので飲み続けねば。
しかし次第に飲んで行くうちに
「まあこの味も許せるか」
そんな風に思えるようになったのです。
そして
これって嫌いなものを受け入れたり許していく行く上で
大事なことなんじゃないかなあと思ったのです。
マズいと言うときは自分の味の予想範囲を越えているとき
今まで口に入れたことのないものを入れると
「えっ」と驚く。
で、それを何とも反応ができなくて
うまいかまずいかの天秤にかけて、「まずい」「嫌い」と言う。
だから、実は嫌いというよりも
予想外ということなのだろうと思います。
そして、それをぼくらは「嫌い」にしてしまう。
コーヒーとはこういう味であるはずと思い口に含むと
予想とは違い、それに驚く、といった感じです。
これもありだよね
ぼくらの周りには「好き」「嫌い」というよりも
「自分たちが知らないこと」のほうが多い。
つまり、自分の知っている範囲外のこと=予想していないことのほうが多い。
だから
「えっ」という予想を越えたあるいは予想通りではないことにあったときに
ちょっと落ち着いて「これもありだよね」と言ってみる。
自分が世の中の色んなものを受け入れて楽しむ上で大事なことではないかと思うのです。
例えば苦みっていうのは
そもそも毒なんですよね。うまいというものではない。
けど、僕らはそれを次第に許して行く。クセになっていく。
そして、それを口の中に入れたいとさえ思う。
そういうふうに、わけのわからないものに出会ったときに
「好きボックス」か「嫌いボックス」かのどちらかのボックスに仕分ける前に
「これもありだよねボックス」に入れるようにする。
そうすると、もうちょっと付き合ってみるか。
どれどれ、どれどれ、と続けて行くうちにそれが習慣化されたりする。
そのうち、それがないことがさびしくなる。
好きとか嫌いというものは、しかめっ面で考えるのではなく、意外とそんなものだと思うのです。