友達の、そのまた友達(いやもっと遠い関係かもしんない)の彼氏との話を聞いたことがある。
彼氏の部屋の掃除をしてあげたときの話。
彼女は鍵を持っているので、たまに部屋に行っては掃除をしていて。
掃除をしてくれることを彼はすごく喜んでくれていた。
しばらく彼がすごく忙しくて、ろくに部屋に帰ってもいなかったから、
いつものごとく部屋の掃除をしてあげた。
彼が帰ってきてからケータイに連絡があって、
喜んでくれたかなあと思って見てみたら、
「こういう書類見なかった?」と連絡してきて、
やりとりしていると、何となく不機嫌で。
しまいには「今度掃除するときは一声かけてからしてね」と言われる始末。
なんとなく怒っているのが分かった。
いつもは、怒らないくせに。
今回も、喜ぶと思ったのに。
彼女は、ひどく傷ついてしまう。
そんな話。
長く付き合いがあるほどに、相手のことが理解できて、きっと喜ぶだろうことがわかってくる。
けど、 ちがう。むしろ逆かもしれなくて。
ぼくらは分かり合えない。
分かりあったふりをしているだけ。
「分かる」と言ったとき、ぼくらはわかっているつもりになっている
japanese-style confectionery / 水羊羹 / [puamelia]
「相手の気持ちが分かる」
とよく言います。
「分かり合ってる」とも言ったりもして。
けど、本当に分かりあってんのか、と言えばそうでもないだろう、
と、言ったら水でもぶっかけられますか。少し落ち着いてもらえますか。
けども、実のところ
それぞれ勝手に想像しているだけだと思うんです。
相手の思ってることとか、考えてることとか。
経験したことや、そのときの感情などなど。
っていうのも、
あたまの中にあるイメージは、いつだって自分のあたまの中にあるイメージだからです。
ぼくらはわかってるはずの相手の話を聞きながら、考えていることはじぶんのこと。
ぼくらが「分かる」って言ったとき、
想像している頭をぱっかーんって割ってみる。
そうするとその中にあるのは、じぶんが何かしてたときのことを思い描いているわけで、
そういう「じぶんの経験」を「相手の経験」とすり替えて
「分かる」とか言っているわけです。
たとえば、
「昨日カレー食べたときに白いシャツにこぼれてシミになってめっちゃ萎えた」という話を聞いたときに「わかるわかる」と言う。
もうぶんぶんぶんぶん首取れるんじゃないかってくらい縦に振りながら共感する。
けど、そのとき頭ぱっかーんすると、じぶんが白シャツにカレー落としてシミになったときの経験で。
「あなたの経験が分かる」なんてのは、まったくの勘違い。
そのときの経験もちがえば、気持ちも違う。ついでに言うと白シャツの値段も違うかも。
こうして、ぼくらは「わかっているつもり」で、「わかる」と言う。
「分かる」と考えるのは支配欲のせい
Yokan with maron (Kyoto, Japan) / t-mizo
ぼくらが「分かる」というとき、
そこには「支配欲」がはたらいているんだと思うんです。
相手をじぶんの頭の中の想定のなかに押し込めたい支配欲。
じぶんの理解できる経験に押し込めて理解することに対して楽をしたい、想定外なことは疲れるからっていう。
家の外に出て行こうとする猫を飼うのは大変ですよ。
だから家の中で丸まるイイ子ちゃんな猫のほうが飼うのはラク。
何の話ですか?ぼくの猫の話です。
そう、分かり合っていない、分かり合えるはずのないぼくらが「分かる」と言ってしまう。
それはなぜかって、
できる限り相手と安定して関係をつくりたいという思いから生まれた、
相手をじぶんの頭のなかに押し込めちゃおうという支配欲があるからってことで。
けれども、この支配欲があるからこそ、疲れちゃうってのも現実で。
「分かっている」と思うから、
そういう「分かっている」じぶんが相手にしてあげたことは、
きっと相手が求めていることであるはず、と考えるわけで。
たとえば、疲れているからきっと生姜焼きが食べたいんだろうな、とか。
たとえば、最近大変だから連絡したら喜ぶだろうな、とか。
たとえば、カレーを白シャツにこぼしたから黒シャツ買って欲しいだろうな、とか。
けど、「分かっているはず」のじぶんが
そうやって相手にしてあげたことが、たまにものすごく「分かってない」という反応を受ける。
「分かる分かる」で丸くおさまっていたときは良かったけど、
「分かる分かる」で行動したら「分かってない」って反応されて、
それが大きなショックになって返ってくる。
分かり合えない。「けど」が大切
sweet bean jelly / 羊羹 / Kanko*
だから、ぼくらはまず「分かり合えない」という前提に立つ必要があるんだと思うんです。
ぼくとあなたは違う人間で、違う環境で育ってきて。
だからあなたが頭の中でイメージしてることを完全に想像なんてできなくて。
だからあなたが喜ぶことは分かってるようで分からない。
けど、それじゃ悲しすぎる。
というかもしれないけど。
大切なことは、
「分かり合えない」のあとの「けど」だと思うんです。
けど、「分かりたいよ」と。
以前の記事でも書いた通り、
「分かりたい」という言葉や思いこそ、「わかる」という気持ちの正体なのだろうと思うのです。
そうして、今日もそこかしこで集めた判断材料を使いながら、
分かりたい相手に対して、伝わるか伝わらないか分からない形で伝えていく。
生姜焼きつくったり、連絡してみたり、黒シャツ買ってみたり、部屋の掃除してみたり。
けど、それでやっても思ってることが伝わらなくて、
相手に嫌がられたり怒られたりして、
こっちがダメージ受けるじゃんってなっちゃうけど、
そのときはね、「へえ」って思いたいです。
一種の驚きでもってむかえたいんです。
「あ、今日はこれで喜ぶんだね、へえ」
「あ、今日はこれで困るんだ、へえ」
「あ、今日はこれで怒るんだ、へえ」
って。
目の前の相手は、昨日は昨日。今日は今日。明日は明日。
だから、さっきまでの「長年付き合って分かっているはず」の相手じゃない。
だから、じぶんがしたことでどんな反応を見せるか、やってみるまでわからない。
その反応を、テストするみたいに面白がりたくて。
で、結果が返ってきたらどっちにせよ発見。「へえ」っていう。
***
ぼくらは分かり合えない。
分かりあったふりをしているだけ。
ぼくらは別のもの。
それでも
その別のものに、なんとなくでも「分かりたい」と思う気持ちは、
いつだって本当なんだろうと思うのです。
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