僕はもう2度と敷居はまたがぬ
引っ越すことにした。
就職先の単身寮に入ることになったからだ。
まあ、就職せずにフリーターとしていることになっても、来年度からは実家を離れようとは思っていた。
「これはもう処分していいのな?」
ある程度片付けたぼくの部屋に親父が入ってきた。
「いいよ。処分していいよ」
もしかしたらこれから戻ってきたときにでも弾くかもしれないギターも、処分することにした。
「もう2度と帰ってこないような感じで片付けてるから」
「感じで」なんて言ったのは、そんな言葉をつけないと何やら家族が嫌いなやつみたいに思われちゃうからだ。
もしかしたらまた戻ってきたときに弾くかもわからないけれど。
いいのだ。処分する。
読むかもしれない本も、
懐かしさに浸れる思い出の品々も、
処分した。
可能性を少しでも残したら、その安らかさへと安易に戻ってきてしまうと思ったから。
昔。
家を出たい。
と母に言ったことがあった。
ここにいたら、じぶんは頑張れない。
今だったらもうちょっときちんと表現できそうな言葉も、その頃は言葉選びが下手くそで、そのせいで母は泣きながら怒ってぼくと大ゲンカになった。
そのときの記憶は、もどかしさとふがいなさと悲しさで、古傷みたいにうずくときがまだある。
その頃から気持ちは変わっていないけれど、もう少しだけ、そこに思いやりを付け加えられるほど余裕はできたつもりだ。
「うん、わかった」
と親父は部屋を見渡しながら言って、じゃああれも処分していいのな?と続けて言った。
いいよ、とぼくは続けていく。
息子の門出ということで、その日は我が家には並んだことのないレベルの寿司が並んだ。
いつもなら次から次へと口に運んでいく寿司も、この日ばかりは、父と母とぼくと姉で、ひとつの種類をひとり一貫ずつ丁寧に口に運んだ。
「うはあ。うまい〜。これ、このカニの寿司、すごいから食べてみて、食べてみて」
と誰かが言うと、それに続いて3人が口に運び、モンゼツしながら「これこれこれ」と言わんばかりに箸を上下に揺らすことを、寿司がなくなるまで繰り返した。
親父は、ひとりでビールを開けていた。
もしかしたら、息子の門出を祝おうとしていたのかもしれない。
糖尿病になって以来、家では全く飲まなくなったビールだった。
次の日はひっこしを親父に手伝ってもらうことになった。
車の中では親父と二人きりだったし、そのあと引っ越しが終わってお礼に牛タンをごちそうして、サシで飯を食べた。
これから働く会社のことやら、まちのことやら、いろんなことを話した。
「仙台は今度から空港が民営化するじゃない?けっこうでかいことだよね?」
とぼくが話をふれば、
「これからはビルだけぼーんとつくるってよりもまちを作っていく感じじゃないとなあ」
と小気味のいい返答がくる。
そんなふうに時間がすぎた。
なんだかそうやって親父と向き合って話すのは初めてで。
小学校のときにサッカーの練習にぼくを送ってくれるのは主に親父の仕事で、車中は二人だったけれども、親父との会話はほとんどなかった。
親父は口下手で、さらに言えば小さい子供との会話なんてのは何を話せばいいのかわからなかったんだろうな。
けれども、今はもう親と子というよりも、働く男と働く男の会話みたいになっていた。
いまやっと、親父ときちんと話すことができたなあ。
悲しいかなこんな別れ際じゃないとそんなこと気づかぬもので、「もっと早く話してれば」なんて後悔するのは、お決まりのパターンなんだろうな。
もう2度と敷居はまたがぬ。
そんなつもりになったからこそ、見えてきた家族の姿があった。見えてきた関係があった。
次にまたぐときはひとりの独立した人間としてまたぎたい。
そういう思いは、今まで照れくさくてフタをしてきたことも、難なく聞けるようにしてくれた気がする。
「そんなこと聞いても……」なんて思うのは、今までずっとそばにいて、この先もずっと会うだろうから改めて聞くのが恥ずかしいのだろう。
けど、そうやってフタをしてきたからこそ見えない家族の顔ってのが、きっとあるんだと思う。
「じゃあもういいな。帰るぞ?」
と親父が言って、ぼくの部屋から出て行く。
靴をトントンと履きながら、ドアの閉まり際、こちらは見なかったけれども
「帰れるときは、できるだけ帰ってくるんだぞ?」
と親父は背中を見せながら言った。
もう2度と敷居はまたがぬ、半ば意地のように息子が決めていても
親父は変わらずに待ってくれている。
ありがと。
人生をかっぽしよう
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