「金のなる石」を山形 立石寺で見つけた
金のなる石がある。
山形で見つけた。
いや、もちろん、石から硬貨が出るはずもないのだけどね。
山形の立石寺(山寺)に行ってきた。
『閑さや 岩に沁み入る 蝉の声』
の松尾芭蕉の俳句で有名な場所。
比叡山から火をもらい受けた、由緒正しい寺。
本堂へと向かう階段が上へ上へとつながり、
一段一段のぼるごとに、煩悩のかたまりであるぼくの煩悩もなくなっていく気がしました。
気のせいだとか言わないでください。
ふと、「それ」にきづいたのが階段も後半へとさしかかったとき。
階段をのぼる途中であるのが
「阿弥陀洞」
もともと大岩だったのだけれど
雨水など自然のちからで開いたへこみ全体が、
偶然にも仏さまの座している姿にみえるというもの
写真だとちょっとわかりづらいかとも思うけれど
たしかにそう見えて
目の前にすると、そのなんとも言えない偶然のすごさ、ありがたさに
じぶんのなかにひろがる気持ちをあらわしたくなる。
そして、そこで見つけたのが
この、「金のなる石」
石のわずかなすきまに、おとずれたひとたちがお金をさしているのです。
これを見たときに、最初、なんだか変な気がして。
「賽銭箱(さいせんばこ)もないのに、ここお参りするところじゃないのになあ」と。
けど、思い返してみると
そこまでの階段でも、ところどころに、
賽銭箱もないのに、へこみがあればお金をおいているのが見られました。
そして、お金だけじゃなくて、お菓子だの、花だの、いろんなものも置いている。
そこまで来て、そうか、と。
なんでもいいのです。かたちなんて。
別にお金じゃなくてもいい。
ぼくは生まれてこのかた、
賽銭箱がきちんとあって、
そこに決まった日にお金を投げ入れて
手をあわせることしかしてこなくて。
けれども
べつにそんな決まりきる必要もなく、
ずうっとむかしから、人間がやってきたこと。
神様か自然かそれ以外かはわからない、
そういう大きくてありがたくて、
なんと声をかけていいか、なにをすれば届くのかわからないものに、
とにかくなにかしらのかたちで感謝を届けていたんだろうなと。
感謝をつたえるための、コミュニケーションの道具。
それが、いまは、お金なんだろうなと。
ちょっと調べてみると
賽銭をするようになるのは、一般のひとびとがお金をふつうに使うようになった、江戸時代そこいらからのことで、それまではお金ではなく、布や食べ物だったんだとか。
そういうものを見て、知って、
お金というものへの価値がまた、変わるんです。
それはただの「商品交換券」じゃないんだと。
いまやお金っていうと、無機質な匂いしかしないイメージに、
ちょっとだけする感謝の残り香が、そこにはありました。
うつせみの
感謝の香る
階段を
まで考えてみたけど、下の句が浮かばないから募集中。
山形。立石寺。
感謝の残り香がする場所。
立石寺についてもっと知るならこちらもぜひ。www.rissyakuji.jp
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