いつの間にかLINEがアップデートされていて、ケータイ用のLINEアプリをiPadに入れても動作するようになっていた。
今までは、iPadでLINEをやるには「LINE for iPad」を入れないといけなくて、
だから、ケータイ用のLINEがiPhoneにもiPadにも入れられるようになったってのは画期的なことで。
おお。こいつはいいやとー思って、LINE for iPadを消してケータイ用のLINEアプリをiPadにも入れることにした。
しかし、だ。
重大なことに気づいた。
LINE for iPadをアンインストールしてケータイ用LINEをiPadに入れると、新しいほうには今までのやり取りが引き継がれないっぽいことが分かった。
つまり今までのやりとりが全部消える。
なんとかすれば引き継がれるのかもしれないけど、ぼくの知識ではできない。
だから結局、今までのLINE for iPadを使い続け、インストールだけしたケータイ用LINEアプリが、iPadの画面の隅っこで手持ち無沙汰そうに座らせられている。
そんなことを友達とごはんを食べているときに話した。
「いやあ、だから消せないんだよね」と。
そうすると、友人が
「消せないやりとりかぁ」
と軽く考えてから
「ないなぁ」
と言った。
ちょっと驚いた。
ぼくはその友人が人からもらった手紙を部屋に飾っているのを見て、びっくりした記憶があるから。
その友人にとって、他人からもらったメッセージはもっと大切なのだと思っていた。
だから
「ないなぁ」
という言葉がひどくあっけなく聞こえて、おどろく。
あんたあんなに残してたジャマイカ、と。
なんだそのあっけなさは、と。
そして逆に、それを言われたじぶんは。
じぶんはどうして消さなかったんだろうと思った。
そりゃ消せないことがたくさんあるからなんだけども、じゃあ一体「消せないこと」ってなんなんだろうと。
大事な予定のやりとりがそこに残っていたわけでもない。
昔付き合っていた彼女とのやりとりだとか、好きだった人とのやりとりだとか、仲間にもらった大切な言葉だとか、人生を決めるきっかけになった言葉だとか、そういう言葉たちだったらきっと残ってるだろうし、実際に少しはあるのだけど。
けど、じゃあそういう言葉たちが本当に必要で残そうとしたかというとそうでもない。
じゃあ何。なんでそんなに残したかったのと問えば、それはハッと気づくのは、ただの臆病から出たことじゃんと。
臆病。
見返す必要があるとかじゃなくて、見返すじぶんでいるかもしれないと、どこかでビクビクしていたからだろうと。
過去の信頼関係を確かめたいじぶん。
過去の恋愛に戻りたいじぶん。
過去の勇気を頼りたいじぶん。
過去はたしかに行き詰まったとき勇気を与えてくれるのだけれど、
思い返せば勇気を与えてくれた過去の存在は、いつだって「過去のじぶん」だったわけで、それは「過去の他人」じゃなかった。
未来のじぶんがなよなよしたときに、「ほらシャキッとせんかい」と勇気は与えるのは、その瞬間その瞬間に何かを感じ取ったり何かを決断するじぶんなのだけど、過去の他人の何かを読み返して「うおっしゃああ」となったことはたぶん一度もない。
過去の勇気を確かめることと、過去にすがりつくことはまったくもって違う。
そうやって以前のメッセージを残すことで、いつでも弱くなって過去に引きこもる準備をしていたのかもしれない。
ノスタルジーは無条件で人を悲しくさせる。
人間は思い出に浸りたい生き物で、「思い出の内容」が悲しいのではなくて、「思い出に浸ること自体」が人間を悲しくするのだと、言ってくれた友人がいた。
ワインを飲みながら、たしかもの悲しげに過去を振り返っていたときだった。
なんだかその言葉はものすごく身に覚えがあり、だからぼくをまっすぐに納得させた。
これからはこれからで、きっと楽しいやりとりがそこに積もっていくだろうし、本当に困ったときは、きっと助けてくれる人が出てきてくれるだろうっていうか出てきてください。
っていうことで、LINE for iPadは消しました。
こんにちは、じぶん。
人生をかっぽしよう