親孝行をするか、社会貢献をするか。
親不孝な子どもは、河原で石を積み続けるといいます。
なんちゅーひどい話だと。
地蔵盆の季節。
旧暦の7/24、いまで言うところの8/23・24あたりにおこなわれる、
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)をお祭りするもの。
近畿地方を中心にしているらしく、ぼくの住む東北ではあんまり聞いたことのないお祭り。
「お地蔵さま」が、仏教における子どもの守り神であることを最近知りました。
そのお地蔵さまを、どうしてこの日お祭りするのか。
それはお地蔵さまに感謝をつたえることで
賽(さい)の河原で石の塔を積み続ける子どもたちを救うためだとも言われます。
親孝行を大切にしてきた日本では、
親よりも早く死んだ子どもを親不孝としてきたわけで。
その子どもは、
賽の河原という「三途の川」のそばにある河原で、
石を積み塔をつくることを強制される。
最後まで積むことで、晴れて親が苦しむことがなくなる。
賽の河原 / mstkeast
けど、その石の塔はできあがることがないんです。
だって
完成する前に、鬼が来て、それを崩してしまうから。
結局
死んでしまった子どもは、親を苦しめつづけることになる。
「親孝行」
ということばがあります。
親にしたがうこと、親に敬意をあらわして尽くすこと。
とおく古代の中国からたいせつにされてきた考え方。
最近だと、家族のかたちもさまざまだから、
親孝行であれという風潮が絶対だ、なんてことも感じない。
好きなところで、好きなように生き方を選べる時代にはなりつつある。
だから、別に親のそばにいることもないし、返す必要もない。
それでも、高校を卒業して、大学を卒業して、働くようになって、
そうして自立をしてくると、じぶんのなかのどこかに
「だれかに感謝を返したい。だれかに尽くしたい」
そういう気持ちが起きてくるもので。
ふしぎなことに、
むかしはあれだけ100%じぶんのものにすることが嬉しかったのに
だんだんとそのうちの数%をだれかにあげることがうれしく感じ出すじぶんが出てくる。
けれども
必ずしも生まれた場所で生き続けなくても良い今、
そして必ずしも親のもとにいなくてもいい今は、
だれにこの恩を返せば良いのか、ちょっとだけわかりづらい世の中になってしまっている気もするのです。
社会貢献したい。あげたい。
そういうふうに思うじぶんがソロソロと出てくるのですが
その「社会」というものには顔はなくて。
とにかく何か大きなものに貢献したいんだ、
けどいったい何に貢献したら良いんだろう、
とおもう。
だれにあげれば良いのかが、見えづらい世の中。
だったら、
いままで顔を見てきた親に返すというのは、ありかなと。
親っていうのは、ずっと目の前で見てきた、感謝を返しやすい人なんだろうと。
「親孝行」ということばを都合よく理解するなら
じぶんがあげること、返すこと、ありがとうということで満たされる嬉しさを満たしたい。
そのとき、顔が浮かんだのが親だったなら、親にあげよう。
そういうエゴな考え方でもいいかな、なんて。
目の前のことほど、いつだって見えづらいものなのだけど。
人生を、かっぽしよう
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