ネットのネガティブなコメントには「ネット上ジャンヌダルク」が必要だと思う
おそるおそるコメントを読みながら
「ありそうだな、ありそうだな、あったらやだなー」
と淡い期待を抱いていると、現実は残酷だ。やっぱりある。
SNSやブログを読んでいると、今日も人を打ちのめすようなネガティブなコメントがある。
とくにブログだけれど人気の記事であればあるほど、だ。
はてなブックマークとか、Newspicksなんかは特にひどい。
こういうサービスの宿命なんだと思うけど。
匿名だから2ちゃんだからどうとかって問題でもない気がする。
けれど、気づけばそのネガティブな中にじぶんがいるときがある。
ネガティブなことを、書きたくて書くのはまだ救いようがあると思う。
いいってわけじゃないけど、その人らは自分のコメントがネガティブであることなんて分かっている。
それでも、それが恨みつらみだろうがなんだろうが、心血を注ぎ込むように書き続けている。
そういうとき、じぶんの心が腐ってるのを知りつつ、人を突き刺す。
厄介なのは、信念もなく、さらには意識もせずにコメントしてしまっているときだ。
ネガティブに書かれる側ばかりだったぼくは、純粋にどうしてそんなネガティブなことを書いてくるのだろうと思っていた。
内容として何が悪かったのだろうと思っていた。
それに対して「スルーしたほうがいいですよ」という声もあるのだけれど、ぼくはスルーするのがなんだかなぁと思っていた。
できるなら理解してみたいもんだ、そういうナンセンスな人の気持ちを、なんて思っていた。
けれど、そのチャンスは待つこともなく訪れていた。
気づけばじぶんが悪だった。
アクセスアップの記事が上がったきたら
「はん、その月だけじゃねえの、すぐ落ちるだろ」
収益の記事があがってくれば
「カネの亡者め。カネばっかり追いかけて人生面白いか。負け組だよな」
と書こうと思ったことが何度あることか。
トップページに上がってきた人気記事を見れば
「つくったような感動ストーリーだな気持ち悪」
「どこが面白いのか全然わからない。文章が稚拙」
「こいつ全然わかってない」
とかとか。
そういうことを書いてるある日、指を動かして入力しているじぶんがふと一歩引いて見えた。
じぶんの横に恨みの化身でもいるかのように、書き込んでいるじぶんがいた。
ネガティブなコメントは最初から書こうとしてるのだった。
ほぼ、タイトルを見てか、じぶんの名前を見てか、そういう内容以前で決まっている。
どこかで足を引っ張ろうと思っている。
そういう気持ちが根本にあった。
「怒りで何かを始めてもいい。けど、それは一度笑いに変えないと、何も面白いものにならない」
という兄貴的存在の人の言葉を、思い出す。
ネガティブなことを吐きちらかし、それを世の中に発信した次の日の朝に何度も思い返す。
ネガティブコメント側にじぶんが立っているときは、たとえばじぶんがちょっと毎日の中でうまくいかないとき。日の目を浴びないとき。
そういうとき、ちょっと目の前に流れてきた幸せそうなことが腹がたつ。成功が腹がたつ。
言わば、じぶんが世界の主人公ではないような感覚に打ちひしがれるとき。
だから、蹴り飛ばす。
内容なんてどうでもいい。
蹴り飛ばす。
そうすることで自分を保つ。
どこかないか。
どこかないか。
こいつがミスってるところ、どこかないか。
そして、鬼の首でも取ったような気持ちになる。
「事実と違うよ。ちゃんと調べたの?」
「画像、これ転載じゃない?」
「こんなの知ってるから」
「長くて読む気にならないわ」
そして何も見つからなかったらこう書く。
「どこが面白いの?」
それはただ、じぶんには必要のないことだったか、感性にフィットしなかっただけなのに。
けれど、それらのコメントは皮肉なことに、ネガティブだろうがなんだろうが、「正しい」。
正しいから、よけいに書き手に対して攻撃性を帯びる。
で、快感になる。麻薬だ。シャブだ。
その記事が
事実と違うこともある。違うかもしれない。
画像を無断転載していることもある。転載しているかもしれない。
こんなの知っている人がたくさんいる。いるかもしれない。
長くて読む気にならない。ならないかもしれない。
そして、面白くないかもしれない。
そういう言葉は見事に書き手を揺さぶる。
だから、ネガティブなコメントってのはやめられないし、あげあし取りってのはクセになる。
けれどその逆に、あるとき圧倒的多数のネガティブなコメントの中に、一言書き手の意図をくみ取っているコメントを発見したことがあった。
そのとき、ぼくは
あ、ジャンヌダルクだ、と思った。
不穏な空気や絶望感やら怒りやら憎しみやらその他もろもろサムシングの中に、それでも人間をあきらめないような、おい、きみにそんなところで前向きにコメントしたって何にも変わらないじゃないか、なんの義理があって助ける?みたいな、そんな様子が、明らかなジャンヌダルクっぷりだった。
しっちゃかめっちゃかに生えたネガティブなコメントの中。
そういう前向きなコメントを1行でも見るたびに、その数ミリの希望に人間捨てたもんではないなあと思う。
ブロガーが少しずつ増えている印象もあるし、SNSで発言もしやすくなったけど、こういう不完全な発言をネガティブの鉄槌がすぐ叩く世の中になったら、そこはダンマリの荒野が広がると思うのですよ。
全てを悪く言わないことなんて、できないのかもしれない。
けど、読む前になんとなく怒りや妬みや憎しみで始めたものと、一生懸命ネガティブにならないように読み、そして書くことは違う。少しの違いのようだけど、全く違うものだと思う。
ネット上ジャンヌダルクに、俺はなる!
人生をかっぽしよう
『自分が世界(Facebook)の主人公ではないと気づいたのはいつからだった?』
『ほら、そうやって人間は自分より低レベルなほうへ他人を置きたがる【白ゆき姫殺人事件】』