日々が干からびてしまったとして
会社に所属し3年が過ぎて思ったことは、自分が「カラカラ」になっていく感覚だった。
中にあるものが出し尽くすだけ出て、けどもっともっと出さなければいけない。
そういうカラカラの感覚。
朝に毎日部屋の扉を出るときぼんやりした感覚が自分を覆い、なんとなくやり過ごして毎日が終わる。これが何なんだろうと考えたとき、気づいた。「よしこれを今日はやるぞ」という新鮮な決意とかワクワクがなくなってしまったということだ。
何度休みを挟んでも、ダメで、同じような朝の繰り返し。
打破したいな、打破しないとな、と心のどこかで思っているけれども、また同じ朝が繰り返される。
昨年の秋口くらいに友人からLINEが来た。
「ブログの記事久しぶりに読み直したら、学生時代の感覚とはまた違った読み方ができて救われた」
と。
救われたのはこっちだった。
そのLINEを受けてぼくも何気なくもう一度自分のブログを読み直してみた。
そこには、今日自分自身が意識している行動、考え方がたくさん書かれてあった。
ああ、こうやって自分はカラカラしている自分を潤わせていたんだなとそこでやっと気づく。
「今日はこれをやるぞ」は「今日まではこうだった」が無いと生まれない。
意識化が足りないのだと気づいた。
意識化というのは、自分が無我夢中でやってきたことを、きちんと意識できるように言葉にすること。
入社して自分がアウトプットだと思ってやってきたことは、実はアウトプットというよりも、名前をつけるならば「がむしゃら」ということだった。
「がむしゃら」は、やればやっただけエネルギーを使う。精神力も体力も使う。疲れるだけ疲れる。犬かきをずっと続けて泳ぎ続けるようなもの。ただ、それを今度はできる限り疲れないように、エネルギーを無駄遣いしないようにするには、うまい泳ぎ方を言葉で意識する意識化が必要なんだと気づいた。「がむしゃら」を少しずつ無くして、「経験」「実践」へと変えるのが、意識化。
ブログをもう一度始めたのは、意識化したかったからというのがけっこう大きい。
日常の中のことをひとつひとつ意識にすることで、人生を積み上げていく感覚をつくる。別にブログじゃなくても、SNSでもいいと思う。
そうすると、自分のがむしゃらが少しずつ言葉になっていく。
それがきっかけになり会社内でも少しずつ変わり始めた。
日々の仕事をまとめてパワポにしたり、クライアントに配り始めたのもそういうことがきっかけ。
相手のためももちろんあるけれども、今日頑張った自分のためにも、がむしゃらの自分を簡単にでも報告というかたちで言葉にしてあげる。
意識化というのは、自分を自分で認めてあげることでもあるんだなあとそこで気づいたりもした。
カラカラの自分自身を救えるのは、何よりも今日までの自分自身であって、それをきっちりと言葉にすることだと思えたのは、2019年の中では大きい。
人生を、かっぽしよう