『火花』で感動求めるのは大間違い。疑ってたけどやっぱり『火花』は面白い
「笑いながら泣く」というのは、こういうことを言うんだろうという作品だった。
そして
キレイな話を嘘くさく書くことは誰だってできるのだけど
キレイな話を本当にキレイに書くことは本当に難しいと思う。
又吉直樹さんの『火花』を読んだ。
そう言いたくなる作品だった。
ピースの又吉の『火花』を読んだ。
とは、この作品を読んであまり出てこない。
本当にミーハーなことに、『火花』が芥川賞を受賞してから読み始めた。
芥川賞に湧いてから1日経つか経たないかで仙台の書店に行くと本当に品切れになっていて。
だからKindleに入れる。
買うときに思ったんだけど、新品よりも中古が高くなってるってどゆこと。
しかも今日の時点でありえない値段になってるし。
- 作者: 又吉直樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/06/11
- メディア: Kindle版
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ちょっとだけの話題作というのは読まないことにしている。
そういう作品にいちいち反応していたら身がもたないよなあと思っているから。
打算的なぼくは話題の沸点が一点をこえたときに初めて反応するようになっている。
今回はそれで。
沸点がこえた。
「本当に面白いんだろうか」
半分そういう気持ちを抱え、さも審査員かのように、ページをめくり始める。
(以下作品の一部を紹介しながら自分の思ったことを書き進めるのでネタバレになるかもしれません)
感動なんて言葉は全く似合わない
物語は、駆け出しの芸人である徳永と、その徳永がライブで出会い、
あまりの奇才っぷりに心酔していく先輩 神谷の二人を中心に進んで行く。
二人は師弟の関係になり、ともにお笑いについて考え、生きて行く。
『火花』を読んでいて思うのは、泣かせようと思って泣かせにくるシーンは全くない。
たまに、小難しくまとめあげようとするシーンはたしかにある。
(ふたりが小雨の中カフェから出て傘をさして歩き出すシーンのまとめ)
けど、嘘くさい言葉を並べ立てて、泣かせにかかるシーンはなくて
むしろ、笑わせにくる。
しかも、大笑いというよりも「ふっ」と漏れてしまうような笑いを誘ってくる。
だから、泣きたくても泣けない。
それは神谷と徳永が漫才をしているシーンではなく、日常のシーンが多い。
たとえば、ぼくが一番気に入っているシーンがある。
神谷がずっと一緒に住んでいた(付き合ってはいない)女性 真樹に彼氏ができたシーン。
神谷はすでに彼氏もいる真樹の部屋から荷物を取り出しに行くために、
後輩の徳永を誘って二人で行くことにするのだが
でも哀しいのも惨めなのも嫌やねん。だから、すまんけど真樹の部屋入ったら、ずっと勃起しといて欲しいねん。
感情的にやばくなったら、お前の股間見るわ。
そして徳永は、部屋に入ると携帯電話に入った裸の写真を見て、勃起を試みる。
また、ふたりがメールをやりとりするシーンはかなりあるのだけど
その末尾にいちいち文脈にあわない小ボケを入れて終える慣習があるのだけど
それが後半になるにつれて、ボディーブローのように効いてくる。
泣くな、絶対に泣くな。
そういう言葉が聞こえてきそうなほどに、この本は泣かせたり、感動させたりしない。
笑いながら涙してしまう
けど、矛盾するようだけど、泣いてしまう。
どうやっても泣いてしまったところが何箇所かある。
さっき言った別れ際の真樹の部屋に入っていくところもそう。
部屋から出た二人。
「身体に気をつけてね」という真樹の言葉を振り払うように
「もうええわ」と言ってドアが閉まった後。
歩き出すと同時に神谷が笑い出す。
「お前、なに勃起しながら泣いとんねん。性欲強い赤ちゃんか」
なぜだろう、何となく哀しいのに笑わせてくる。
だからこそ余計哀しくなって、泣いてしまった。
徳永の組んでいるコンビ「スパークス」最後のライブ。
ネタの中で、徳永は観客に向かって、言葉をぶつけ始める。
「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」
決して泣かせになんてかかっていない。
徳永はこのとき、本気で素直な笑いを目指していた。
少しは売れたけど、素直に人を笑わせたくて、
神谷のように純粋にアホをやって笑わせたくて、そういう芸に出る。
冒頭、徳永と神谷が出会ったときに神谷がやっていたネタにも重なるものがあって、笑いの後に、グッと胸をつかまれる。
読んでたのが家で良かった。
布団の上で仰向けになりながらそのシーンを読んでいたのだけど、
気づいたら布団がめっちゃ濡れていた。
そして、圧巻は、ラストの神谷。
笑いを追求しすぎて、ついに豊胸までする。
その頃には、神谷の借金も大きくなり、そのせいで事務所も解雇され、行方知れずになっているときだった。
それを読んで、「本当にアホだなこいつ」なんて思いながら読む。
「すまん。俺な、もう何年も徳永以外の人に面白いって言われてないねん。だからな、そいつらにも、面白いって言われたかってん。徳永が言うてくれたから、諦めんとこうと思ってん。自分が面白いと思うとこでやめんとな、その質を落とさずにみんなに伝わるやり方を自分なりに模索しててん。その、やり方がわからへんかってん。ほんで、いつの間にか俺、巨乳になっててん。今では、ほんまに後悔してる。ほんま、ごめん」
どんなときでもアホをやって笑いに変えていた神谷が
笑いに生きすぎて、どうして良いか分からずに、そういう行動に出る。
そしてそれを過ちとして真面目に謝る。
情けなくて、アホらしくて、その後に哀しくて、辛かった。
一切「泣かせようとしてやがる」なんてシーンはない。
誰しも漫才師である
「何か強いものを感じた」
この作品を評価した芥川賞選考理由がある。
ぼくなりに感じた強いものを言葉にするなら
それは神谷が徳永に言った理論。
「気づいているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」
これだと思う。
たぶん、ぼくらは
人生でずっと笑おうとしていて、
それも必死に笑おうとしていて、
笑う理由なんてどこにもないのに、泣けばいいのに、
どこかで笑う理由を探していて、
どこかで笑いを取りに行く誰かを演じている。
そしてそれに必死になりながら、生きている。
たまにそこから冷めるときもある。
たまにそれが生きすぎて演じすぎるときもある。
けど、ぼくらはたぶん漫才師であることからは離れられないんだと思う。
『火花』を読んで、笑いながら泣いて、そんなことを実感する。
ようこそ、嘘くさくない文学へ
読み終わって
「純文学の復活」
という言葉がこの作品に向けられていたのを思い出す。
ぼくは純文学というものについてよく分からなかったのだけど
これを読んでから、その意味がなんとなく分かった。
読者に媚びず、純粋な芸術を目指した文学作品
というのが純文学の辞書的な意味だそうだ。
伏線をバリバリ貼って、
人が死んだり病気になったりというドラマ性があり
というようなエンターテイメント小説とは反対側にあるものだろうと思う。
***
この作品に、「泣ける」とか「感動」なんていう世間受けする言葉は似合わないと思う。
けど、「面白い」「迫ってくる」そういう言葉は言える。
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