だからあなたの夢は叶わない。こうするだけで違うのに。
地元の駅で子どもが一日駅員のようなことをしていた。
駅員になってみたいという子どもに機会を与える。
いわゆる「キャリア教育」というものだろうか、とそんな風に思いました。
しかし同時に、子どもに大人ができることって何なのか
ふっと改めて考えることになりました。
そもそも僕らには夢を語る才能だけはあったわけで
その子たちが本当に駅員になりたかったのかは分からないけど
自分の経験を振り返ると
自分がなりたいものに対して疑似体験でも良いから
体験してもらえる、あるいは本気でなれるように支援してもらえた記憶は全然なくて。
例えば僕は
僕なんか幼稚園の夢は
カラスと白鳥とかって、もうとにかく鳥類になってみたかったわけで。
けど、先生は僕が鳥類になることに対して支援はしてくれなかったです。
幼稚園や小学校で
それを全力で支援された覚えはないです。
せいぜい、卒業文集などの賑やかしネタになるだけ。
思えば、僕らは幼い頃に
「将来は何になりたいですか?」
「夢は何ですか?」
なんてことは聞かれた経験があるはずで。
まあ、鳥類は置いておくとしても
「将来はアンパンをメインにしたファストフード店を作りたい」
と中学校の三者面談で言ったのに
先生は何の支援もしてくれなかった。
大人は子どもに社会的な資源を貸してあげたい
こういう風に
何かしたい、なりたい子たちはたくさんいるのであって
その子たちに大人たちができることは
「社会的な資源を渡すこと」ではないかと思いました。
子どもがやりたい、と言うことに対して
大人が支援をすればよいのではないか。
そういう大人を紹介してやれば良いのではないか。
この世の中で、自分のやりたいことをするには
必ず資源が必要になります。
情報、お金、土地、社会権威、モノ、知識…
「やりたい」
がスタートだとしても
「できそう」
になるには、資源が必要になってくる。
だからその間に
「ほしい」
が入ってくるのであって
そのときには、間違いなく欲しいものを持っている大人が必要になってくる。
欲しいものを見つけるには大人の質問一つで十分でしょ。
ただ、社会資源を最初っから欲しがる子なんていないと思います。
「なりたい」から「だからこれが欲しい」まで
落とし込める子はそれほどいない。
花屋さんになりたい
と言う子に対して
そのときに
「どうすればそうなるかな?」
と一言聞いてあげれば
どうすればそうなるんだろう?と一気にその子の夢が現実味を帯びてくる。
その子はきっと帰ったら
親に「どうすればなれるの?」と聞くだろうし
近所の花屋さんに聞きに行くかもしれない。
どうすれば? を考えたら必要なことを一緒に考えてあげる
お花屋さんになりたい。
と言ったときに
場所が必要で
お花が必要で
来てくれるお客さん
営業法やら
その他、花屋に対するその子の青写真があって。
子どもがなりたいと言ったら
どうすれば?と聞いてあげて
「ほしい」と言って来たら手に入れ方を一緒に考えたり
手に入れるための努力を一緒にしてあげる。
そうすれば、ひとつひとつ
その子たちのなりたいものへ挑戦できるし
挑戦していればそのうちうまく行くだろうと思います。
だから先生や親には質問をする力が必要
僕が教育にもっとファシリテーション(考えを引き出すスキル)が必要だと思っているのは
まさにこういう理由な訳です。
子どもはやりたいことがある。
けど、それを最初は言っていても、そこに支援をしてくれない大人がいれば
いつかそれを言うことなんて何の意味もないと考えるのは当然なわけで。
資源は学校や家の外にたくさんあるわけです。
だったら「何が必要か」まで子どもから親や先生が質問で引き出せば
あとは学校や家が外に連絡をとってその子のために資源を持って来てあげればいい。
挑戦するのは子どもの役目です。
セーフティーネットだけ張って大人は見守る。
子どもは上手く行ったり失敗してカサブタつくったりしながらどんどん学んで行きます。
子どもだけじゃなく、大人にも必要だろう
そしてこの質問を必要としているのは
子どもだけじゃないのだと思います。
大人にも質問をしてあげる社会は必要なのです。
だってそういう環境が周りにないまま大人になっているわけだから。
僕がやっているワークショップやら課題解決のコンサルティングなんてのは
そういうことを実践しているだけであって。
本来ならば周りの教師や親がやってきていれば
当たり前に身に付いていた思考法なわけですし。
そもそも「総合の時間」なんてそういうことを目的としていたわけですよね。
しかし、それができていない。
じゃあ、誰かがやればもっと楽しくなる。
「なりたい」
「へえ。素敵」
で終わらせる世の中じゃなく
本気で聞いてあげる。
ワクワクして聞いてあげる。
そういう世の中になれば、きっともっと夢なんて儚いねなんてことを唄わなくなるんじゃないだろうか。
そんな風に思います。