無駄を受け入れることの必要性
人生に無駄なことは多いように思っていた。
僕は無駄なことが嫌い。
できる限り、人生は意味のあるものにしたい。
だから
人と話している時間があったら
できるだけ本を読んで知識を詰め込みたい。
行きたくもないイベントに行くんだったら
カフェに行って原稿を書いていたい。
そういうタイプの人間。
時計を見る。
そしてこう思う。
「この時間があったら
あれだけのことができたのに」
ただ、そんな生き方に疲れることもある。
意味のあるものに
意味のあるものに
そうやって、意味のない時間に
意味をぎゅうぎゅうに押し込んでいく。
そしてなぜだか気持ちがいっぱいになる。
孤独を感じる。
街に足を踏み出す。
ウォークマンのイヤホンを耳に詰め込む。
そして、僕は世界を切り捨てていく。
そしてまた、僕は外の世界の気持ちが理解できなくなっていく。
カフェの喧騒がうるさい。
ウォークマンのイヤホンを耳に詰め込む。
そして、僕は世界を切り捨てていく。
そしてまた、僕は外の世界の気持ちが理解できなくなっていく。
自分が欲しい意味だけ詰め込んで
自分だけの世界に浸りこんで
外の世界とどんどん離れて
そしてまた
外の世界と自分の世界の途方もない距離に疲れる。
思えば、人生は意味に満ち溢れているのだと思う。
無駄
ではない。
ではなくて、自分が排除したもの。
「世界から要らない」
と勝手に自分が捨てたものだった。
立ち食い蕎麦が大嫌い。
立ち食い蕎麦を食べてみる。
立ち食い蕎麦を食べる人の気持ちが分かる。
そうか。
世界は、人生は、意味に満ち溢れている。
楽しまないのは、自分。