散歩は生産を呼ぶ(後編)
前編はこちらです。
どうして退屈が生産へとつながるのか。
それを説明するために、具体例から考えてみましょう。
幼い頃、何も無いところで一人で座っていて退屈になると、僕は壁の木目が動物に見えてきて、想像の世界を膨らませていました。
みなさんも、与えられた人形しか遊ぶものが無いなら、それを使っていろんな物語を遊んだでしょう。
僕は今でも人形で遊べる自信があります。ジェームズ・キャメロンなんかに負けない世界観を出す自信があります。負けません。負けない。
退屈は人に生産する意欲を生みます。自分が楽しむためには、新しいものを考えて遊ぶしかありませんから。
外の世界では見るものが制限されません。木を見るか、鳥を見るか、おばさんを見るか、店を見るか、それは一人一人が決めることです。そこでは、見るべきものは自分で決めるのです。
ふと目を止めたものと自分の頭の中に埋もれていたものがつながって、全く新しい、そして楽しいものが生まれるかもしれません。何かを打開するものが生まれるかもしれません。
時には、外の世界を意識して見ずに、自分の頭の中にあるたまったことを整理することに集中してもいいと思います。実際僕もそういうときが多いです。
これが僕の、散歩で生産をする理由です。
僕の中では、止まった時は準備できたものを出す時と思っています。止まって考える時間をとるということはしません。せっかくゆっくり書く時間があるので、書くことに最大限の力を注ぎたいのです。
外を散歩するなら自転車でもいいじゃないか?
いや、危ないんですよ、自転車は。
あのスピードで意識を別に向けてると、もはや次の瞬間には意識が無くなりかねない事態に陥りますから。それはなんとしても避けたいですよ。
はい、単に交通安全上の問題です。