人生かっぽ

人生かっぽ —佐藤大地ブログ

哲学、言葉、人生観、仕事、恋愛、など人生をかっぽするような物語をつむぎます。宮城県 仙台市を主な活動拠点とする佐藤大地のブログです。2014年からEvernote公式アンバサダー。大学院では政治学を研究していました。

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正直「あの日を忘れるな」の「あの日」を共感なんてできない。けど、それでもいい。

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「あの日」をぼくらは共感しあえない。
「あ、あのときは入試前で、こっちいなかったんです」
「テレビで見てました」
と後輩に言われると、あーそうなんだ、とため息が出る。

黙祷をよびかける放送が各所で流れる。
道端で立ち止まり黙祷を捧げる人がいる。
ちらっと時計を見て「あの時だな」と思う人がいる。

「もういいよ、3.11とか」と電車内で言う人らも
周りがそういう状況なので
その瞬間にはほぼ強制的に、3.11に戻るようにされる。

3/11 14:46になると、少なくともぼくが住む宮城県ではあの日に戻らされる。

あの日を本気で思い出すとその複雑な感情に胸がつまる。


それでもあと何十年かしたら
「3.11? あれなんか事件あったっけ? テロだっけ?」
みたいな教科書の暗記項目みたいな扱いになるんじゃないかと思ってしまっている、自分。

あの日を共感できない人が、ぼくの周りに増えてきた。
けど、待てよ、とも思う。


「あの日を忘れない」
ぼくはこう思う。
たとえお互いが被災者だとしても、
あの日は違うし、分かりあえないし、共感できない。
けど、それでもいいと思った上で、それが必要だと。


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「あの日を忘れるな」は本当の意味では残酷だ

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あの日を忘れるな。
あの日を忘れない。

この日付が近づくにつれて、その言葉が声高に叫ばれる。


ぼくは宮城県被災した。
宮城県大崎市というところだ。
県内陸部で、津波とはまた違う、揺れが大きく道路が寸断されたりや家が倒れたり、水や電気が止まったり、電車が途中で止まったり、した。



思い出すとその複雑な感情に胸がつまる。


沿岸部で仕事をする家族が無事に戻ってきたあの瞬間や、
そんな状態で連絡も取れない家族に「生きていればいいから」と日に日に入ってくる新聞の悲惨な状況を見ながら自分を落ち着けるように繰り返す母の様子とか
「ただいま」と真っ暗な家の中に家族が戻ってくることがこんなにも飛び上がるほど嬉しかったのかと泣きそうになる体験や
都市部で一人暮らしをする恋人が孤独に苛まれていないか、無事避難したかといてもたってもいられなかった感覚や
何よりも、あの3.11 14:46の瞬間から大きな音と揺れの中で必死に階段を下りながらわけもわからず「生きる」ということを掴もうとした感覚とか
そういうことを思い出すと、「感動」「悲しみ」「あのときは」なんていう言葉は
あのときの気持ちのほんの一片すら言い表せていなくて、陳腐になる。


あの日を忘れるな
そういう言葉は、忘れないふりでもいいし、ある程度の感覚まで思い出すにとどめたいと思っている。
本当にリアルな感覚は、思い出すと、「辛さ」なんて言葉で語れないほど、辛い。
だからそれを忘れるな、なんて言われると
本当に残酷だと思う。



あなたの「あの日」なんて分からない

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「誰が被災者か」
「私も被災者です」
被災者って言うな」


3.11からしばらくしてから、「被災者」という言葉が物議をかもした。

「私も被災者です」
という言葉が、まるで
「あなたの悲しみわかります」
という免許代わりに使われる。
その言葉に対して自分が被災者だと思う人が
「誰がこの悲しみを分かってくれようか」
という反発をする。


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ぼくは被災した。


それでも、分かりえない。
他の人の被災の五感を通すようなリアルな体験は。

沿岸部の津波で被害を受けた人たちとは、また違う被災の仕方をしている。
迫り来る津波から命からがら逃げたという記憶はない。
仙台のような都市圏での被災の仕方とは違う。
単身暮らしで電気も食料もない狭い避難所で寂しさを抱えながら過ごした経験もない。
同じ内陸部でも、ぼくの家は倒れずに残った。
東日本大震災=東北というイメージのせいで、
北関東の方々が液状化などのせいで家が住めなくなったことも知り得ない体験。



一人一人の被災の仕方は違うし、被災者だから分かる、という言葉も言えない。
根本的な体験からしたら、ぼくらは分かり合えない。


けど、忘れたくはないと思っているし
分かりあいたいとも思う。


「おしくらまんじゅう」と「集い問うこと」


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だから
「あの日を忘れない」という言葉は「おしくらまんじゅう」のようなものなのだと思う。


「あ、そのときは入試前で」
「あーそうか、そうなんだ」
大学の後輩の話でハッとする。

君の「あの日」へのリアリティは、ぼくとは違うだろう。
共感できない関係に少し残念になる。

仙台には、学生がたくさん来る。そしていなくなる。
2011年に被災したとき大学1年生だった学生も、もう卒業した。
そして2011年を「同じ場所」で体験してはいない人たちも入ってくる。

あの日を忘れない。
という言葉が、都市部仙台で、意味が変わってきている。


でも
そもそも、最初から少しずつは違ったんだろうと思う。
ぼくらの「あの日」への感覚は。


根本の部分でのあの日へのリアリティは、分かりえないんだから。



けど、あの日から、ぼくらは
「何かを共に持っている」という感覚にさせられているし、
そう思いたいし、そう思っている。
それはポーズでもいい。

見ている世界はそれぞれに違うとしても
そこに何かしらの理由を作り出して集まる。
それはちょうど「おしくらまんじゅう」みたいに、
集い、身体が接触して、そこに暖かさが生まれていく。

それでいいと思っている。


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自分の人生の選択に何が大きく影響しているか。と聞かれたら、
明治維新でも、
第二次世界大戦でも、
ポツダム宣言でも、
オリンピックでも、
阪神淡路大震災でも、
アメリカ同時多発テロでもなく、
東日本大震災と答える。

そこから動き出したことがあり、そしてそれはまだ終わっていないこともある。


3/11になると、あの瞬間に一瞬戻る。
で、ぼくらは何かを共有している感覚になる。
それでもいい。それでもいいから。
そこでもう一度問うことが大切なのだと思う。
「私は、何をしようか」



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