人生かっぽ

人生かっぽ —佐藤大地ブログ

哲学、言葉、人生観、仕事、恋愛、など人生をかっぽするような物語をつむぎます。宮城県 仙台市を主な活動拠点とする佐藤大地のブログです。2014年からEvernote公式アンバサダー。大学院では政治学を研究していました。

MENU

どうしようもなく惨めなとき

どうしようもなく自分が惨めに思えるときっていうのはあるもので、
そういうとき、誰かの言葉が異常にやさしく思えたりする。


季節の変わり目のせいなのか、おそろしく体調を崩してしまい、扁桃炎になってしまった。

症状が落ち着いたと思ったら、今度はヘルペス。
両方の口角、鼻の下、鼻の中…
人生で初めてくらいこんなに同時多発でヘルペスが出た。
もう痒くてしょうがない。
顔中に吹き出物が出過ぎて、いつも以上に人の顔を見せたくないし、見たくない。

用事を済ませるために新宿に行くついでに、ドラッグストアに行って、ヘルペスの薬を探した。

薬剤師がいないと買えない薬なので、レジでヘルペスの薬ありますか、と聞いた。
そう言っている自分の顔を見られたくなくて、ちょっとうつむく。

そうすると、薬剤師のおばちゃんが奥から出てきて、はいはい、ヘルペスね、と言いながら簡単に薬の説明をして、レジを打ち始めた。

こっちとしてはもう早く会計を終わらせたいところだったけれど、おばちゃんが
ヘルペス?お兄さんが?
と聞くので、
ちょっと、ここらへんに
と口角を指差した。

おばちゃんが
この薬早く塗ってね、ほんと、びっくりするくらい効いちゃうからと、
薬剤師が言って大丈夫なんかというセリフを言った。

で、そのあとに

かわいそうにね、早く治ると良いね

と言われた。

なんかそれが僕にとってはあまりにも突然で、おかしいくらいに感動してしまった。

大人になればこんな言葉は言われなくなる。
かわいそうに、と傷をさすられた記憶は多くの人が抱えたことがあるだろうけど。

ふとしたことが積み重なって、どうしようもなく自分が惨めに思えるときってのは大人になるとやってきて
いやむしろ大人になるからやってきて
そういうとき、大人だから自分でなんとかするんだと気張ってしまうけど、
こんなシンプルで、ある意味子供騙しとも思えてしまう言葉が、惨めな人にも世の中はいいもんだなと思わせてくれる。

久しぶりに文章を書きたくなった

久しぶりに文章を書きたくなった
から、急いで家路につき、言葉が逃げないようにとすぐにiMacの前に座り込んで、電気もつけずにこの文章を書いている。

文章を書くと、感傷的になる。

でも、文章じゃないと伝えきれないことがある。

今、ポッドキャストもやっている。音声には、音声にしか伝えられないことがあると思っている。
だから、ポッドキャストをずっとやりたくてポッドキャストをしている。

けど、やはり、それでも、文章でしか伝えられないものが、ある。
なんか有名なアブちゃんの動画みたいな言い方になってしまった。
(知らない人は、「アブちゃん バイオレンス」で調べてね)

文章を書くときは、1人だ。
こうやってタイピングしているとき、部屋の中に響き渡っているのは、自分がキーを叩く音だ、
調子がいいときは、調子がいい音がなる。
それを自分で聞いて、ますます調子がよくなる。

けど、音がそれしか流れていない。

耳は
自分の内側にずっと傾けて、音にしない声を拾うように、拾うようにと、とにかくずっと傾けている。


文章は孤独なのです。
とにかく、孤独。

だから、テンションは、静か。とにかく静か。

だから、ぼくの文章しか知らない人と会った時、テンションの違いでびっくりされたものだ。
そんなにふざけるんですね、と。

どちらかと言えば、文章を打っているときの自分は孤独な自分を外に出したまんまの形をしているので、勘違いさせたくないと、文章以外で自分を伝えられることを何度も何度も模索してきた。

あった。たしかにあった。
けど、それはそれ、これはこれ、だ。
みんなでお酒を飲んでいるときの自分と、ひとり電気もつけないで部屋の中にいるときの自分がまったく同じひとのほうが珍しいだろう。

ここまで書いていると、だんだんと何を書きたくなってきたかは忘れてしまったけれども。

でも、これでいいのである。
夕暮れ時、ひとりで散歩しながら感傷的になっている自分を、突然書きたくなった。
それだけで、文章を書く理由なんて十分なんだと思う。

読み返すと、実にポエマーですが、こういうものなのだ、文章なんて。

さて、ネギでも刻むか。

雪道

最近朝に早起きをする。
奇跡だ。
何日続くかわからない。

そして悲劇なことに
そういうことをやり始めた瞬間に
雪が本格的に降り始める。

だから、朝はこんな状態

f:id:daichi6388:20201215064907j:plain

悲劇だ。

命からがら近くのコンビニまで歩いて行って
ホットコーヒーを買うのが使命。


歩道はすっかり雪で深い雪に覆われているので
雪のない車道側を歩く。
でもたまに対向車がやってきて、
強制的に歩道側に行くことになる。

ちょっとギリギリすれ違えるんじゃ無いのー?
と、もしかしてだけど状態で考えてみるけど
もしかしない。
あえなく深い雪の待つ歩道側に出ることになる。

悲劇だ。


帰り道、ふと頭に浮かぶ。

もう少し時間が経った道端で
登校中の小学生たちが
わいわいきゃいきゃい喜んで
長靴で深い雪をわざと歩く姿。

そうやって、道は踏み鳴らされていく。
進撃の巨人で言えば
それはつまり
「地ならし」
だ。
そうつまり、登下校中の小学生は巨人である。

いや、そんなことは思ってないけど、
30歳過ぎて
「足が冷たいの」
とか言ってるおっさんは
そうやって子供たちが作った轍(わだち)を
我が物顔で歩いていく。

きっと、身の回りにはそういうことがたくさんあるのだと思った。

感謝していく大人でありたいなとかそういうことよりも
雪道を歩くのなら、小学生のように歩きたいな、と。
使命感とか義務感とかに駆られながら雪道を歩くのではなく、ただただ、目の前の雪にたわむれる、キモいおっさんでいたいな、と。